右派は「美しい国」だと誇り、左派は「暗黒の時代」として恐れる。さまざまな見方がされる「戦前日本」の本当の姿を理解することは、
日本人に必須の教養と言えます。
歴史研究者・辻田真佐憲氏が、「戦前とは何だったのか?」をわかりやすく解説します。
※本記事は辻田真佐憲『「戦前」の正体』(講談社現代新書、2023年)から抜粋・編集したものです。
・対外戦争の指導者としての神功皇后
神功皇后は、第14代仲哀天皇の皇后である。名は気長足姫尊(おきながたらしひめの みこと)という。
しばしば神がかりとなり、神託を伝える巫女的な役割も果たしたが、仲哀天皇の死後は、息子の第15代応神(おうじん)天皇が
即位するまで、69年にわたって政務を担った。
神功皇后が注目されるのは、その執政中、妊娠中の身ながら、みずから軍隊を率いて朝鮮半島に攻め込んだからだ。
例によって、記紀で神話の内容が微妙に異なるが、以下ではより詳細な『日本書紀』の記述に従おう。
仲哀天皇の治世がはじまって8年め。天皇は、九州南西部の熊襲(くまそ)を征伐するために、
筑紫の香椎宮(福岡市の香椎宮がそのあとといわれる)に、神功皇后とともに滞在していた。
このとき、皇后を通じて「自分を祀ったならば、熊襲だけではなく、金銀財宝豊かな新羅もおのずと服従するだろう」との神託が下った。
ところが天皇はこれを信じなかったため、翌年急病にかかり崩御してしまった。
そこで皇后は、あらためて神託を受けて、熊襲などを平定し、ついで新羅への出兵を決意した。
その出陣のシーンはなかなか勇ましい。髪をみずらに結った皇后は、みずから刑罰の印である斧鉞(ふえつ)を握り、
「敵が少なくとも侮るな。敵が多くとも屈するな」などと麾下の軍勢を叱咤激励。そして臨月を迎えていた腹に石を挟んで、
「帰国後に生まれたまえ」と祈念して、対馬を経由し、新羅の国に到達した。
新羅の王は、海上より突然あらわれた軍勢に恐れおののき、「東に日本という神国があると聞く。やってきたのは、その聖王である
天皇の神兵であろう。どうして挙兵してこれを防ぐことができようか」とただちに降参し、服属を約束した。
・神功皇后が成し遂げた「三韓征伐」
ちなみに、この新羅王の発言が「神国」ということばの初出だ。そのため、原文(書き下し)も引用しておこう。
吾聞く、東に神国有り。日本と謂ふ。亦聖王有り。天皇と謂ふ。必ず其の国の神兵ならむ。豈兵を挙げて距ふせくべけむや。
この新羅の服属をみた百済、高句麗も同じく服属したため、皇后は帰国し、筑紫で誉田別皇子(ほんだわけのおうじ)を生んだ。
これがのちの応神天皇である。
このように神功皇后が新羅・百済・高句麗を服属させた遠征を三韓征伐という。
皇后はその後、反逆した皇子たち(応神天皇の異母兄弟)を打ち破り、大和に帰還した。『日本書紀』ではこの年を摂政元年とする。
西暦に換算すると201年。皇后はそこから69年にして、ちょうど100歳で崩御した。
神功皇后の活躍は、すべてそのまま事実として受け取ることはできない(それだと妊娠期間が長すぎて、応神天皇の父が仲哀天皇で
なくなってしまう)。ただ、3世紀には卑弥呼が活躍しており(『日本書紀』もしばしば『魏志倭人伝』を引用する)、
4、5世紀には古代日本が朝鮮半島に進出している。
確定的なことは言いにくいが、どうもこれらの歴史を組み合わせたものらしい。
いずれにせよ、伝承上とはいえ、このようにみずから外国に攻め込んだ皇后は、神功皇后しかいない。
天皇にいたっては、ひとりとして例がない。だからこそ、たぐいまれなる対外戦争の指導者として、北条時宗、豊臣秀吉と
並び称されたのである。
ー後略ー
辻田 真佐憲(文筆家・近現代史研究者)
全文はソースから
2/3(月) 7:04配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/1381ccc979be281513ef7dc9d56c90a2bdf56cf2
引用元: ・【現代ビジネス】 有名な「対外戦争の指導者」にして「三韓征伐」を成し遂げた「伝説の人物」をご存知ですか [2/3] [仮面ウニダー★]
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