https://shohgaisha.com/column/grown_up_detail?id=3301
── パニック障害が発覚した経緯を教えてください。
「呼吸のしづらさ、どちらかといえば吐きにくさが最初の違和感でした。横隔膜のしこり、喉元にビー玉のような感覚もありました。睡眠不足でもこういう傾向にはなりましたけれども」
── その時は病院などにかかろうと考えましたか。
「それ以前に膵臓と糖尿病で薬漬けで検査も沢山あり、これ以上薬を増やすのを避けられるなら避けたいと思っていました」
── ドクターとの関わりはどうでしたか。
「自分は昭和の人間なので無意識のうちにサボりや怠けを恐れていました。それで印象的だった一言が、『今から“休む”という仕事を与えます。スマホも切って』でした。誰からもそう言われたことはなかったんです」
── 病院以外、例えば行政サービスなどは受けましたか。
「姉が来てくれた時は心強かったです。通院そのものへの励みになりました。身内なので異変にはすぐ気付けるんです」
止まっていいというアドバイス
── パニック障害の発症はいつから、どのペースですか。
「具体的にいつからかは分かりません。ただ昔は、うつ病やパニック障害という表現がなかったわけで、分からないですよね。呼吸が浅くなると言い出せばずっと前からあったような気もします。芸能は緊張と隣り合わせなので、過呼吸になることもありました。それで去年くらいに限界を感じましたが、SOSを出してもなお仕事を続けていました」
── 物事に楽しさを感じにくくなったのはいつからですか。
「去年の10月くらいからでしょうか。ただ、一回一回の仕事やウケに達成感を抱くとそれはそれで持たないので、当たり前と思うしかありません。ウケるよりも、スベったのをフォローできた時に嬉しさを感じた程です。サッカー選手で例えるなら、点を取った時の嬉しさが希釈されていくような領域でしょうか」
(中略)
─ 復帰後の活動について目標などはありますか。
「50歳からのスピード感で、人間いつ死ぬか分からないし誰も教えてくれないので、先送りにしないことが一つですね。大病を二度したので、再発が怖いなら猶更です。農業も手伝っておりますが、芸能と二足の草鞋でやっていけるのであれば、やっていきます。太陽を浴びて土をいじったり、日本を出てマレーシアに行ってみたりするのも、心の拠り所に変わっていきました。皆様に伝えたいのは、苦しい時の逃げ場所は早く見つけたほうがいいことです。言うなれば、ハンターのいない『逃走中』、どこへ行ってもいいんです。自分の生活圏に留まる理由はなく、変わる一歩になるのならば移住してもいい。環境を変えるのは自分次第、逃げ場を作ってもいいんです」
──1度ミスしたら終わりの社会をどう生きるかでもありますね。
「1アウトしたら3アウトみたいな風潮はありますが、法律でも何でもないルールに縛られる必要はないと思います。ただ弱者に寄り添う社会であってほしいですね」
引用元: ・「休むという仕事」で救われた~次長課長・河本準一さん、うつ病とパニック障害を語る [おっさん友の会★]
こいつにうつ病とパニック障害を語ってもらいたくない