2025年08月15日
今から80年前の1945年8月15日、終戦を迎えた日本では、時の軍人や政治家たちが続々とGHQ(連合国軍総司令部)から戦犯指名を受けていた。
その中の一人が、日中戦争勃発から太平洋戦争開戦前まで3度にわたって首相に任命された近衞文麿だった。東京の巣鴨プリズンに出頭を命じられた文麿は、同年12月16日未明、自邸にて自殺を遂げる。
没度80年の今年、直系の子孫で近衞文麿の曾孫にあたる近衞忠大(ただひろ)氏(55)がインタビューで語った「近衞家の戦後」とは……。
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※本稿は「週刊新潮」2025年8月14・21日号掲載【一族が目撃した自決前夜――「近衞文麿」曾孫の独白】の一部を抜粋/編集したものです。
1400年続く近衞家の次期当主
「近衞文麿が東京裁判に出ることを拒み自決したのは、『天皇陛下をお守りするためだ』と両親に聞かされたことがあります。『近衞』という名字は『近くを衛(まも)る』を意味し、つまりは『陛下のお近くをお衛りするのだ』と言われて、自分の生まれは責任重大だと思いました」
こう話すのは、クリエイティブ・ディレクターの近衞忠大氏である。
今から80年前の1945(昭和20)年8月15日に終戦を迎えた日本では、時の軍人や政治家たちが続々とGHQから戦犯指名を受けていた。その中の一人が、忠大氏の曾祖父にあたる近衞文麿だった。
東京の巣鴨プリズンに出頭を命じられた文麿は、同年12月16日未明、自邸にて自殺を遂げる。
初めて首相の座に就いたのは45歳の時。以降、日中戦争勃発から太平洋戦争開戦前まで3度にわたって首相に任命された。その経歴からも、文麿は“泥沼の戦争に導いた指導者”として人々の記憶に刻まれている。
関白道長などで知られる藤原氏が源流の「近衞家」は、五摂家筆頭として明治時代以降の華族の中でも最上位の公爵家だった。庶民からすれば雲の上の存在だったが、戦後では、その名を好意的に捉える人は決して多くないだろう。
文麿直系の曾孫にあたる忠大氏は、1400年も続く近衞家の次期当主として、一族に課せられた十字架を背負ってきたのである。
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引用元: ・【特集】「近衞」という名を背負って…「近衞文麿」の戦犯指名と自死から80年 「文麿公直系の曾孫」が独白する「近衞家の戦後」
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