世間の監視社会日本の社会は信頼によって成り立っているとよくいわれる。しかし、制度の実態をよく見ると、それは正確には「社会による信頼」ではなく、
「世間による監視」である。
ここでいう「社会」とは、互いに顔の見えない個人が、
・法
・制度
を通じて結びつく仕組みのことである。
・契約
・責任
・権利
といった近代的な枠組みが秩序の基礎となっており、個人の行動は制度によって裁かれ、守られる。裏切りも想定したうえで関係が成立するため、
信頼とは本来、リスクをともなう選択である。
一方、「世間」とは、互いの顔が見え、暗黙の了解や空気によって統制される共同体的な感覚である。そこでは制度や法律よりも、「どう思われるか」や
「迷惑をかけないか」といった感情的な配慮が優先される。責任の所在がはっきりせず、誰とも知れぬ他者の目に振る舞いが規定される。
このように、日本の秩序の実質的な基盤は社会よりも世間にある。人々は裏切られても信じるのではなく、疑われないように行動する。つまり、
信頼されているから善くふるまうのではなく、信頼を失わないように見せることで自分の立場を守っているにすぎない。幼いころから身につく
「迷惑をかけるな」
「空気を読め」
といった規範も、制度ではなく名もなき他者の視線から生まれる圧力である。世間は実在する誰かではない。内面に形成される他者の
集合的な想像であり、逃れられず、責任の所在が曖昧なまま人を縛る。
芸能人の謝罪会見で繰り返される「世間をお騒がせしました」という言葉は、この構造を如実に示している。そこに向けられた謝罪は
法律や契約の違反ではなく、「空気」の乱れに従うことである。法に違反しなくても責められるのは、世間が制度とは異なる別の秩序の原理に基づくからである。
周りに合わせられない個体は災害来まくる日本では淘汰済みなんだろう
コメント