【エッセイ】ゲイである僕には男性のパートナーがいるが、自分の子供を望んではいけないのだろうか
Daniel Lam
「いまの生活で充分だ」と言い聞かせながら、子供を諦めたことに複雑な思いを抱えている筆者。言葉にしがたい空虚感は、いつも彼について回る。

引用元: ・ゲイである僕には男性のパートナーがいるが、自分の子供を望んではいけないのだろうか [478973293]
たくさんの赤ん坊を抱いたあと…
数年前、小児科の研修医期間だったころ、1ヵ月のあいだ新生児室で働いたことがある。僕たちのチームは郡立病院4階の狭い廊下に毎日集まり、ガラス越しに赤ん坊だらけの部屋を見ていた。
赤ん坊が泣けば、泣き止むまでだっこする。赤ん坊の出入りは毎日激しく、車輪付きベッドは駐車場に放置されたショッピングカートのようにでたらめに置かれていた。
その日は分娩中の母親がひとりしかおらず、落ち着いた朝を迎えた。僕たちは担当の小児科医とともに回診をし、包茎手術の必要な子や、光線治療が必要な黄疸のある子がいないかを診た。
看護師から赤ん坊を渡されると、その子を抱きながら健康状態をチェックする。やるべき新生児健診や記録も少ない。
カフェテリアでランチを済ませたあと、退院手続きを終えた若いカップルが嬉しそうに(とはいえおびえた様子も見せながら)、小さい赤ん坊を腕のなかに抱えてエレベーターホールから去っていく様子を見送った。担当医は早めに帰宅していいと言うので、僕はそれに従った。
昼下がりの往来をすいすいと帰宅し、おやつを食べて、夫が帰るまでパソコンでネットフリックスを楽しんだ。今日はどうだったんだい? と夫は聞く。うん、いい日だったよ。そう答えたところで僕は彼に歩み寄り、ハグをした。夫の腕のなかで涙を流した。
僕の一部はまだ、新生児室から離れられていなかった。親になることの身近さとその遠さが僕を打ちのめす。夫を抱きしめているこの腕は、数時間前に抱いた赤ん坊の重みを覚えている。
それによって、自らを生きるに値しない存在だと思い続けてきた、僕の人生を振り返らざるを得なくなった。
(以下略)
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