豊臣秀吉には、姉の瑞龍院(「とも」)と妹の朝日がいたことが知られているが、実はほかにも姉妹がいたという。秀吉は姉妹の存在を知り惨殺したので、その顛末を取り上げることにしよう。
秀吉には秀長以外の兄弟があらわれ、それが不都合だったので、惨殺したことは以前に述べた。こちら。秀吉の母の天瑞院(「なか」)は、
不特定多数の男性と関係し、子供をもうけていた可能性がある。
秀吉は急に兄弟が姿をあらわしたので、ほかにもいるのではないかと疑念を抱き、探すことにした。その結果、姉妹がいることが
判明したのである。そのことは、フロイス『日本史』第12章に書かれているので、以下、紹介することにしよう。
天正15年(1587)頃、秀吉は兄弟と称する若者を惨殺してから、尾張国に自分の姉妹がいることを知った。その姉妹は貧しい
農民だったので、秀吉は自分の血統が賤しいことを知られるのがまずいと思い、先に手を打つことにしたのである。
秀吉は姉妹に対して、姉妹として認めるので、相応の処遇をするので都に来るよう命じた。とはいえ、
姉妹はそれを望まなかったというのだから、嫌な予感がしたのかもしれない。それでも姉妹は、どうすべきなのか考えたのである。
結局、姉妹は秀吉が遣わした使者の欺瞞と悪意に気付かず、これは天が与えた幸運なのかもしれないと考えた。
姉妹はすぐに身支度を整えると、何人かの身内の女性とともに都に向かったのである。しかし、都に到着すると、過酷な運命が待ち構えていた。
姉妹と身内の女性は、都に入るとすぐに捕らえられ、無残にも首を斬られたのである。姉妹は都でのすばらしい生活を期待していたが、
秀吉にとって姉妹は不都合な存在だった。秀吉が姉妹らを招き寄せたのは、もちろん殺害するためだったのである。
当時は、今のように結婚したことを届け出る制度はなく、秀吉の母も通説で知られる2人の夫以外の男性と関係した
可能性がある。たまたま先に秀吉の兄弟があらわれたので、秀吉は母にほかにもいないのか厳しく問い質した可能性がある。
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/0ea37f6f7f43c0cca12ecfe173f8b7bc4dd78c0b
引用元: ・豊臣秀吉はガチンコで底辺から成り上がったから、譜代の家臣とか全くいなかったらしいな。 [194767121]
いやバレバレですやん?
強姦と虐殺と略奪は日本猿の国技です
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