前田利家といえば、加賀百万石の基礎を築いた大名である。若き頃の利家は、織田信長に仕えていたが、ある事件により追放された。その辺りについて、詳しく考えることにしよう。 当初、利家は織田家家老の林秀貞の与力だったが、のちに信長に仕えることになった。若い頃の利家は「かぶき者」として知られ、短気で喧嘩早かったといわれている。利家が初陣を飾ったのは、天文21年(1552)の萱津の戦い(信長と織田信友との戦い)だった。
利家は「槍の又左衛門(槍の又左)」といわれるほど武芸に優れており、その後も信長の命に応じて各地を転戦し、大いに軍功を挙げたのである。やがて利家は赤母衣衆(信長の親衛隊)に抜擢されたのだから、順風満帆だったといえよう。
永禄2年(1559)、利家は信長に仕えていた同朋衆の拾阿弥を斬り殺した。同朋衆は信長の近辺に仕えて雑事を担当しており、拾阿弥は信長のお気に入りだったという。なぜ、利家は拾阿弥を殺したのだろうか。
ことの発端は、拾阿弥が利家の笄(こうがい/結髪用具)を盗んだことにあった(『亜相公御夜話』)。佐々成政が拾阿弥をかばったので、余計に話がもつれた。利家は拾阿弥を成敗すべく、信長に許可を求めたが、それは認められなかったのである。
一方の拾阿弥は目に余る所業を行い、一向に態度を改めることがなかった。そこで、利家は信長が見ている前で、拾阿弥を斬り捨てたのである。利家は佐々成政への対抗意識もあり、最初から処罰されることを承知のうえで、わざと信長の目の前で斬ったという説がある。
信長は激怒したが、家臣からの助命嘆願もあったので、利家を出仕停止とした。事実上の家中からの追放である。織田家を辞した利家は、熱田社家の松岡氏などのもとに身を寄せたという。翌年に桶狭間の戦いが起こると、利家は無断で出陣して軍功を挙げたが、それでも復帰を許されなかった。
利家が許されたのは、永禄4年(1561)のことだった。永禄12年(1569)、信長は利家に対して、兄の利久に代わり前田家の家督を継ぐように命じた。利久は病弱であり、後継者たる男子がいなかったからだったといわれている。
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/43aa18cf144e2b22af8546bfeb1aa8e0ba3cf9af
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