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女性でありながら力持ちで、重いイチゴの籠も軽々と持ち上げた。一日たりとも休むことなく働き、その稼ぎで1男2女を大学に送り、結婚させた。家に遊びに来た人には必ずイチゴを持って帰らせた。
村で彼女を知らない人はいなかった。食事時に訪ねてくる人には、いつも温かい食事を振る舞った。一人暮らしの人の昼食まで気にかけた。村人たちは彼女を「温かいおばさん」と呼んだ。
その「温かいおばさん」はこの冬、温かい国、タイへと休暇に出かけた。姉や妹、義姉妹たちと女性6人の旅行だった。そして二度と帰らなかった。一生、イチゴ農業に従事してきた彼女は、イチゴの収穫期にこの世を去った。
2024年12月31日、チェジュ航空の旅客機惨事が発生してから3日目。務安(ムアン)国際空港で会った朝鮮人・ホイルさん(仮名・65)は、妻のキム・ミヘさん(仮名)について慎重に語った。朝鮮人さんは今回の惨事で、妻を含む6人の家族を失った。
いつものように朝鮮人さんは、イチゴの収穫をしていた。その時、知人から電話がかかってきた。
「兄さん、もしかしておばさん(キム・ミヘさん)がタイから帰る日ではないですか?うちの母さんもタイに行っていて、母さんは金海(キメ)空港で降りるけど、おばさんは務安空港で降りるって言ってました。早くニュースを見てください」
朝鮮人さんは全羅南道・潭陽(タミャン)から務安空港へ急いだ。一縷の希望を抱き、奇跡が起きるかもしれないと思いながら。しかし、その希望は叶わなかった。生存者2人を除く、179人の搭乗者が死亡したというニュースが伝えられた。
近所の人々も、日頃から隣人を気遣っていたキムさんの死を知った。朝鮮人さんは語った。
「周りでも大騒ぎですよ。ずっと電話やメッセージが来ています。あの人は近所の人たちにも本当に親切にしていましたから。本当に人が好きだったんです」
朝鮮人さんは「家族と仕事以外のことは何も知らない人だった」と、妻を振り返った。
「一日も休まず、ただ苦労ばかりして生きてきた人でした。家族のために働いて、それだけで人生を終えてしまったのが、本当に胸が痛いです。子供たちをみんな育て上げて、これからやっと楽に暮らせると思った矢先に…」
■ペンとカメラを遺して去った夫婦
ジャーナリストの夫婦だった。
夫は7年目の放送局プロデューサーだった。彼の視線は、常に社会の弱い立場にある人々に向けられていた。最後の休暇に入る直前まで、未登録移住労働者をテーマにしたドキュメンタリーを準備していた。
少しでも良い社会を作りたいという希望を持ち続けた、心温かな人物だった。困難な仕事も厭わず、どんな厄介な仕事でも黙々とこなした。同僚たちは彼を頼もしい存在だと口を揃えて語った。
妻は粘り強く事件を追い続けた記者だった。
2年かけて、5・18民主抗争に関連する46人の証言を集め、それを映像で記録した。彼女の作品『映像採録5・18』(原題)は、「5・18言論賞」を受賞した。彼女の粘り強さは社会を変えた。
彼女は養殖場で化学物質「ホルマリン」にさらされ、白血病になった外国人労働者が労災認定を受けた話を報じた。この報道を受け、政府は安全対策の見直しを約束した。この記事は、韓国放送記者連協会が毎月選定する「月間放送記者賞」を受賞した。
きちんとした記者だった彼女は、家では愛らしい「お姫様」だった。彼女の父親は30歳になった娘を「○○姫」と呼んでいた。目に入れても痛くないほど大切な娘だった。
その日も父親は娘のことが心配で、「到着したのか?」とカカオトークでメッセージを送った。しかし既読にはならず、数十回の電話にも応答がなかった。褒賞休暇を取って旅立った娘と婿は、ついに戻ってくることはなかった。
文章と映像で、わずかでも美しい世界を作り出していたジャーナリストの夫婦。しかし彼ら自身は、この世界にはもういない。
娘と婿を一度に失ったキム・ジンファンさん(仮名・61歳)が、務安空港の外で彼らについて語った。愛する家族を失った悲しみのなかで、焼酎を口に流し込みながらもインタビューに応じた。記者を見ると、記者だった娘を思い出すからだという理由で話を始めた。
■「戦争のような轟音」…コンクリートの土手があった
以下全文はソース先で
サーチコリア 2025年01月04日
https://searchkoreanews.jp/life_topic/id=33260
引用元: ・【済州航空事故】妻や親族6人が帰らぬ人となったイチゴ農家、娘と婿を一度に失った父親…遺族が口を揃えたこと [1/4] [ばーど★]
天罰だね。ザマァごらん遊ばせ。
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