結成から半世紀…デビュー前の貴重映像・音源で送る 安全地帯の草創期日本の音楽界で類まれな存在感を放ち続ける、玉置浩二。安全地帯として、80年代から「ワインレッドの心」など都会的なメロディーでヒットを送り出してきたが、その“原点”は70年代、安全地帯を結成した、自然豊かな故郷・北海道旭川市にあった。
「旭川で音楽を作り、旭川に人を呼び込む」―農機具小屋を改修し合宿生活を送りながら音楽を奏でた青春には、病・ケガなど危機に見舞われ、メンバーチェンジを重ねながらもがいた日々がある…。今回、安全地帯メンバー、元メンバー、関係者などのロング・インタビューが実現。貴重なアマチュア時代の映像・音源とともに、玉置浩二、安全地帯の“原点”、そして今の日本が忘れかけている“情熱”を、呼び覚ましていく。
「今考えると一番良かったかもしれない 東京に行きたくなかったんだよね」
1973年、中学の同級生だった玉置浩二・武沢豊ら3人が「安全地帯」を結成。以後、現メンバーの矢萩渉・六土開正・田中裕二のほか、武沢の兄・俊也ら8人が、離合集散を繰り返しながらデビューを目指した。中でも彼らの心に刻まれているのは約4年間に渡る「合宿生活」。田園が広がる旭川市郊外・永山の一軒の農機具小屋を自ら改修し、そこで寝食を共にしながら練習に明け暮れていた。
「今でも一番影響うけた人、武沢の兄貴だ」
「その頃の玉置ってまだ幼くてまだ詞がお子ちゃまなんだよね(笑)」
玉置が10代の頃、音楽的に一番影響を受けた、と言ってはばからないのが、ギター武沢豊の兄で、元メンバーの武沢俊也。結成直後に加入し、安全地帯では主に作詞を担当。作曲の玉置とともにオリジナル曲を多数つくり、ポプコン(当時、新人の登竜門だったコンテスト)に挑戦していく。当時の安全地帯が目指したのは「旭川で音楽をつくり、旭川で演奏し、旭川に人を呼び込む」という理想。玉置いわく「アメリカのロックバンドみたいに同じ場所で生まれ育ったやつ
が作る音楽」だ。玉置と俊也は、曲作りの唯一無二のパートナーとして信頼を深めていく。
「“北海道で音楽やる”より、“東京で成功する”に変わったんです。もうここで成功しないと何の意味もないって」
そんな安全地帯に、大きなチャンスが。当時、井上陽水や小椋佳のプロデューサーとして活躍していた星勝が合宿所を訪問。その後、陽水のバックバンドとして全国ツアーを回ることになった。しかし俊也は、その直前に脱退。そこにはプロとして作詞をしていくことへの重圧があった。俊也無しでもやっていく、そう決めた安全地帯は、合宿生活に終止符。「東京での成功」を第一目標に置き換えた。それは、こだわりだった「地元の仲間だけで作る音楽」を諦めることでもあった。以降、安全地帯は、井上陽水作詞「ワインレッドの心」から、多くのヒット曲を世に送り出していくことになる。それが、旭川時代の大きな理想とは合致していなくとも…。(以下ソースで
11/23(土) 22:34配信 MusicVoice
https://news.yahoo.co.jp/articles/6e420f13e326180d9e8619c8b56097438eb6b5ed
「安全地帯・零ZERO-旭川の奇跡-」キービジュアルcNHK
https://msp.c.yimg.jp/images/v2/FUTi93tXq405grZVGgDqG9xX3MH5qFi8wMB_Qy81b-9Kj7eZRUzaQ0L6PYfusniIg68wNmcQ-g9xPIIYv8pG6oY-h5T8MMm4CIJfXX0T87B–m2NZ2pr6fP614o64XCwA9pZuOQGywKf7iyDtFB6C_F6SRVIsJ_NbxYiLv_-eMncV9zB-ahYvMDAf0MvNW_vSo-3mUVM2kNC-j2H7rJ4iIOvMDZnEPoPcTyCGL_KRuqGPoeU_DDJuAiCX119E_OwfvptjWdqa-nz-teKOuFwsAPaWbjkBssCn-4sg7RQeguDZNRaifXhNCs_BugWVA5o/20241123-00010008-musicv-000-1-view.jpg?errorImage=false
引用元: ・【NHK】北海道スペシャル 「安全地帯・零ZERO-旭川の奇跡-」全国放送決定 [シャチ★]
コメント