9/9(月) 11:12 文春オンライン(※抜粋)
https://news.yahoo.co.jp/articles/4c04833eaa06da0a32ef0405873a834091bf570d
■みんなが「これだ!」とピンときた曲「LOVEマシーン」
当時、グループのリーダーだった中澤は、このころのモーニング娘。は手売りでCD5万枚を完売したときのがむしゃら感や結束力がなくなり、勢いが失われていると感じていたという。
そこへ来て鈴木あみとの対決があり、それ自体には何の意味も感じられなかったが、その結果はグループがまとまっていないことの答えなのだと思い、危機感を募らせる(中澤裕子『ずっと後ろから見てきた』ワニブックス、2003年)。
矢口もまた、7thシングルのリリースが発表されると、《“このシングルがダメだったら解散になるかも” って声もスタッフさんたちから聞こえてきていて。だから “ここで気合いを入れなおそう” “もう一発ガーンとヒットを飛ばそう” って時期だったんだ。
で、つんく♂さんから曲をいただいて聞いたときに、みんなの中に “これだ!” ってピンとくるものがあって》とのちに振り返っている(矢口真里『おいら』ワニブックス、2003年)。その曲が「LOVEマシーン」だったわけである。
■お蔵入りしていた楽曲をダンス☆マンの編曲で
つんくによれば、もともとこの曲は1993年頃にシャ乱Q用につくり、「まんじゅう娘」という仮タイトルをつけて適当な仮歌でデモテープを録ったものの、結局お蔵入りになっていたという(『女性セブン』2012年7月26日号)。
自分では気に入っていたこの曲を再び引っ張り出したつんくは、アレンジャー(編曲家)にダンス☆マンを指名する。ダンス☆マンは当時、70~80年代のダンスミュージックの名曲をユニークな日本語詞でカバーしていた。
つんくはその詞よりむしろ音を面白がり、彼に直接会うと「ショッキング・ブルーの『ヴィーナス』とジャン・シスターズの『ミラクルズ』を足して2で割らない感じで、イケイケでやってくれ」とオーダーする(『日経エンタテインメント!』2000年4月号)。
ダンス☆マンに発注してからトラックダウンまでわずか1週間で、つんくはリズム録りやトラックダウンに立ち会いながら、ずっと歌詞を書いていたという。そうやってアレンジが完成し、仮歌を入れたデモテープをメンバーたちに覚えてくるよう渡したのは歌入れの前々日。しかもレコーディング中もなお歌詞を書き換えたりするという突貫工事であった。
モーニング娘。のレコーディングではまず、各メンバーがすべてのパートを歌っていき、そこから誰がどこを歌うかを決めていた。その際、メンバーは歌詞ではないところや間奏におのおの考えたフェイクのフレーズなどを勝手に入れて、それがつんくに気に入られると実際に曲中に使ってもらえたという。
曲の終わりで矢口がささやく「LOVEマッシ~ン」のフレーズも、レコーディング中に彼女が思いついて入れたものらしい。(※中略)
■時代の空気とシンクロした
この年の忘年会シーズンには、あちこちのカラオケで「LOVEマシーン」が歌われた。週刊誌には振り付けをイラストで解説した記事が出るほどであった。そんな世間の騒ぎようは、幕末に民衆が世直しを望んで乱舞した運動になぞらえ「平成のええじゃないか」とも称された。(※中略)
もっとも、つんくに言わせれば、そういったもっともらしい世評はこじつけにすぎず、自分が大切にしたいのはあくまで「最初に音をちゃんと自分の耳で聞いて振り返ってくれた人たち」だった(『無限大』2005年冬号)。それでも、あの曲が同時代の状況から影響をまったく受けていないわけがない。そのことは彼も認めており、あるインタビューではこんなふうにぶっちゃけた。
《去年[引用者注:1999年]の春、僕はドラマに出演していたんですけど、その頃以降のどの局のドラマの主題歌もとにかく暗すぎたんですよ。(中略)僕らがシャ乱Qでワイワイ言われている頃は、なんか悲しい歌とか、いい歌っぽいのが受け入れられる時代だったんですけど、ここまで不景気だと、ちょっとムカついてくるんですよね、だんだん。
うっせーよ、お前に説教されたくねーよ、とか。なんかそういう感じだったんですよ、僕自身が》(『SWITCH』2000年3月号)。
(※以下略、全文は引用元サイトをご覧ください。)
引用元: ・【音楽】なぜ「LOVEマシーン」は社会現象になった? 発売から25年…“時代に刺さった”ワケとは「お前に説教されたくねーよ」 〈文春〉 [湛然★]
代表曲は「旅行行くなら楽天トラベル」
コメント