●拒否反応を代弁するキャラクターがいる
その拒否反応の理由の筆頭は、表面的には「小学生の時にいじめをしていた少年『石田将也』が、高校生になっていじめをしていた相手の少女『西宮硝子』に再会して、友達になろうとして、さらにはその少女からの恋心まで示される物語」であるからでしょう。「いじめの加害者がいじめの被害者と友達になるなんて、ましてや好意を持たれるなんてありえない」という批判はもっともですし、それは極めて普通の感覚です。
しかし、劇中ではその感覚を代弁してくれる、「植野直花」というキャラクターがいます。彼女は商店街でまさにそのふたりの関係を「友達? いじめてたやつと友達?」などと嘲笑しつつ不快感をあらわにする、作り手側の「批判は当然」だと示した存在だと思えるのです。
そのほかにも、映画本編では人によっては拒否反応を覚えてしまうキャラクターや展開について、本編または原作者のコメントで明確に「回答」しているポイントがあり、物語が伝えていることは「いじめ」や「恋愛」という枠組みには収まっていないと考えられます。
※以下からは映画『聲の形』の結末を含むネタバレに触れています。鑑賞後にお読みください。
●「加害者意識」が強かったふたりが「生きよう」とする物語
この『聲の形』は「死にたいと思うほどの自己嫌悪に陥っていたふたりが生きようとする」物語でもあります。実は、いじめの罪を背負い続けた石田将也だけでなく、いじめられていた側の西宮硝子も「加害者意識」が強いのです。
たとえば、原作者の大今さんは『聲の形 公式ファンブック』で、「硝子は被害者ではありますが、自分に対する周囲の振る舞いは、自分がクラスメイトに迷惑をかけているからこそ、つまり硝子自身に原因があるというひどい自己嫌悪があります」と語っています。観覧車で硝子が植野に言った「私は私が嫌い」も、その自己嫌悪の明確な表れです。
さらに大今さんによると、硝子は「自らの壊したもの」の「カウント」をずっとしていて、そのカウントがついに「死」に達したのは、橋の上で将也がひどい言葉をみんなに投げかけた時だったそうです。その時にも硝子は「自分のせい」だと思って、その後は母の誕生日を祝ったり、妹の結絃の写真をコンクールに応募したりと、「死への準備」を始めてしまいます。
そして、硝子の命を救った将也は、彼女に「生きるのを手伝ってほしい」と告げました。お互いに傷付けあい、周りも傷付けたと思っていた、コミュニケーションが下手で、自分自身を許せずに死のうともしていた、そんな不器用さでいっぱいの将也と硝子が、この言葉通り「ともに生きよう」とするのです。
そんなふたりの関係は客観的にはいびつなものかもしれませんが、少なくとも単純ないじめの加害者と被害者という構図だけには収まってはいませんし、恋人同士になって終わりでもありません。この後の可能性がいくらでもあることにこそ、希望を感じられる物語でもあると思います。
また、将也の「生きるのを手伝ってほしい」という言葉はプロポーズにも聞こえるところですが、大今さんは「将也は硝子に恋愛感情を持っていない」と明言しています。一方で硝子が将也に好意を持ったのはいつなのか、劇中では具体的には示されていませんが、こちらはファンブックでは大今さんが明確に答えています(具体的には読んでほしいので秘密にしておきます)。
いずれにせよ「今」の将也はかつてのいじめっ子ではなく、硝子に対しても、その妹の結絃に対しても、好意を持たれるほどの献身的な行為の積み重ねがあるのも事実でしょう。
引用元: ・【映画】『聲の形』は不快になるのが前提の映画? 拒否反応が出た理由と作中の回答とは [ネギうどん★]
超絶カス担任は痛い目にあった描写は全く一切なしで
リアル障害者をとことん見下した胸糞漫画だったな
SNSで作品を使った人達に誹謗中傷したり怖いわ
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