ある漁師が人魚のような魚を捕まえた。言葉を話す魚を怖がった漁師が魚を逃がすと、人魚は津波の襲来を予言した。信じて逃げ出した漁師は助かり、信じなかった村人は流された――。
この物語は日本の江戸時代にあたる1771年、琉球王国の先島諸島で約1万人の命を奪った「明和の大津波」の惨事を伝えているとされる。
南山大人類学研究所の後藤明特任研究員(文化人類学)によると、先島諸島には当時の被災を伝える多くの伝承が残る。
「島にとって海は別の世界。災いは、その境界を侵し秩序を乱したことで起きると考えられていた。『物言う魚』の話は、津波の教訓として残ったのだろう」
こうした伝承は、津波の被害が大きかった集落に分布する傾向がある。石垣島や宮古島で広く語り継がれた一方、石垣島からわずか約6キロ・メートル沖にあり、被害が比較的小さかった竹富島では少ない。
なぜ近い島で被害に差があるのか。理由の一つが竹富島を囲むサンゴ礁だ。
群生するサンゴは石灰質の骨格が海面に向かって成長し、島を囲むように浅い海底地形「礁嶺」を作る。これが高波や津波で防波堤のように働き島を守った可能性がある。竹富島では物言う魚と対照的に、明和の大津波で「島が浮いた」という伝承がある。
石垣島では当時、海抜30メートルの高さまで津波が上ったとされる。その威力を物語るのが、島の海岸や内陸部に点在する直径数メートル以上の巨岩「津波石」だ。
これらの大半が明和の大津波で陸に打ち上げられたという。東京大の後藤和久教授(堆積学)によると、台風の高波で陸に上がった石は沖縄県のほぼ全域に分布するが、津波石は先島諸島にしかない。明和の大津波の規模になると、200トン以上の岩が海底から打ち上がるという。
沖縄は琉球王国が成立した15世紀より前になると、文献の記録が非常に少ない。空白の時代の手がかりになるのも津波石だ。
石垣島の南東部、海抜10メートルの崎原公園にある直径12メートルの巨岩「津波 大石うふいし 」は、付着したサンゴの年代測定から、本土で弥生時代にあたる約2000年前に陸に上がったという説がある。
静岡大の北村晃寿教授(古生物学)らが石垣島の地層から津波堆積物の年代を調べると、大規模な津波は約2000年前から明和の大津波まで、約600年間隔で4回起きたと推定された。
明和の大津波は、謎の津波でもある。推定される震源は石垣島沖で地震の規模はマグニチュード7.4程度。津波が多くの人命を奪ったとされる。
先島諸島の南には水深6000メートルに達する琉球海溝が東西に走り、南からフィリピン海プレートが沈み込んでいる。しかし九州から台湾までの 島嶼とうしょ 部で、こうした巨大津波が襲ったのは先島諸島だけとみられる。
産業技術総合研究所(茨城県つくば市)の岡村行信名誉リサーチャーらのチームは近年、石垣島沖の大規模な海底地滑りで明和の大津波を再現できるという説を発表した。
琉球海溝の北には、幅約50キロの隆起した海底地形が帯状に延びている。産総研が詳しく調べると、石垣島沖の隆起帯に長さ約80キロ、幅約30キロの巨大な凹地があり、不自然に地形が途絶えていることが分かった。海底の隆起帯が地滑りを起こし、大津波の引き金になったという。
明和の大津波は揺れの被害が少なかったとされるが、静岡大の地層の調査で津波の直前、石垣島に強い揺れがあったことを示す地割れが見つかった。
有史以来、複数回の津波が石垣島に襲来したことも、先島諸島の地震や津波の謎を読み解く手がかりになる。
岡村さんは「隆起帯では、過去に複数回の地滑りが起きたとも考えられる。何度も津波が襲う原因を明らかにすることは、先島諸島の防災にも必要だ」と話している。
引用元: ・【沖縄・先島諸島の人魚伝説】1771年、1万人の命を奪った明和の大津波の惨事、教訓で伝える・・・人魚は津波の襲来を予言した、信じて逃げ出した漁師は助かり、信じなかった村人は流された
そして岸田を助けた漁師は後悔しているのであった。糸冬
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