■豊島沖海戦1894年7月25日
日清戦争は、ある意味、陸奥宗光外務大臣が積極的に動いて誘発させた戦いだといえる。
それは、国内の政治的混乱を収拾するためであった。
この時期、陸奥外相が進める列国との不平等条約改正案に対し、立憲改進党や国民協会などが対外硬六派を結成して反対していた。対外硬六派は議会の過半数を占めており、不平等条約を励行するよう政府に要求したので、改正交渉は暗礁に乗り上げていた。
現条約では外国人の居住や活動範囲は制限されていたが、実態として外国人は国内で自由に生活していた。そのため現条約を厳しく適用すれば、多くの外国人が移転を余儀なくされ、不自由を強いられる。そうなれば、列国のほうから条約改正を切り出してくるはずだというのだ。
なお、排外主義の立場から現条約を支持する議員も少なくなかった。条約改正が実現して内地が雑居となり、外国人が国内で大規模な商活動を展開すれば、日本の諸産業は乗っ取られてしまうと真剣に心配したのである。
衆議院の第5議会では、条約励行建議案が大日本協会から提出され、同案の衆議院通過が確実になった。
このため伊藤博文首相は、衆議院を解散した。総選挙の結果、与党の自由党は躍進したが、過半数を制することはできず、明治二十七年(1894)五月の第6議会では、内閣弾劾不信任上奏案が可決されてしまった。そこで伊藤は六月二日、再び衆議院の解散を断行した。
すでにこのときから陸奥外相は閣議で主戦論をとなえ、強引に開戦に持ち込もうとしていた。政府の強引な命令の多くは、陸奥から出ていたといっても過言ではなかった。実際、明治天皇は戦争に反対しており、伊藤首相も開戦によって列国の干渉を招くのを恐れ、消極的な言動が目立っていた。
けれど陸奥は、国内の政治危機を打開するには戦争しかないと考えていた。判断の善悪は別として、その予想は見事に的中する。
これまで執拗に政府に抵抗してきた野党は、戦争が始まったとたん、大きく態度を変えた。
開戦後に開かれた第7臨時議会において、政府の出した臨時の軍事予算と軍事公債案を全会一致で可決し、挙国一致体制をもって、政府の作戦を支援する姿勢をみせたのだ。大国との初めての全面戦争において、内輪もめをしている時ではないと考えたのだろう。
七月二十五日未明、豊島沖においてついに日清戦争の火ぶたが切られた。2日前に佐世保軍港から出撃していた日本の連合艦隊のうちの第1遊撃隊が、豊島沖で敵の北洋艦隊と遭遇し、戦闘状態に入ったのである。
日本の第1遊撃隊は、吉野、秋津洲、浪速の3隻。対して清側は、済遠、広乙、操江、高しょうの4隻。清の艦隊は高陞に清兵1100名を乗せて牙山に輸送する途中であった。当日は霧が濃く、第1遊撃隊は合流予定の味方の艦船だと思って近づいたところ、敵艦だったことから戦いが始まったとされる。
海戦は、第1遊撃隊の勝利に終わった。清の巡洋艦・済遠に打撃を与えて戦線離脱させ、広乙を座礁させて自爆に追い込み、高しょうを撃沈。降伏した操江を拿捕したのである。
ちなみに高しょうは、武装した清兵を多数乗せていたが、実はイギリス船籍の商船だった。巡洋艦・浪速の艦長である東郷平八郎は、高陞を臨検してイギリス人の船長を拘留し、続いて清兵を捕縛しようとした。
ところが同船がこれを拒絶したため、この船は清軍に不法占拠されたと見なし、撃沈したのである。
これにより、清兵1000人以上と乗組員が犠牲となった。沈没時、日本海軍はイギリス人を全員救助したが、おぼれている清兵を見殺しにしたといわれている。
さすがの陸奥宗光外相も、浪速がイギリス船を撃沈したと聞いたとき、イギリスが日清戦争に干渉してくることを想像して焦ったという。
以下全文はソース先で
AERA 2024/07/04/ 11:22
https://dot.asahi.com/articles/-/226305?page=1
引用元: ・【AERA】「カミソリ外相」陸奥宗光 なぜ明治天皇や伊藤博文首相の反対を押し切って日清開戦に導いたのか [7/5] [ばーど★]
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