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とにかく一刻も早く福井から京都に戻りたい…父の赴任に同行して越前に行った紫式部がやっていたこと
996年、紫式部は父・藤原為時の赴任に同行して越前へ向かった。歴史評論家の香原斗志さんは「1年ほど、彼女は越前で暮らし続けるが、越前の風物を詠んだ歌や国内を移動した記録は残っていない。父の世話をしながらも、都を懐かしがってばかりいた」という――。
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父娘が越前に下向したのは、長徳2年(996)の夏以降のことだった。都を出発した為時一行は、粟田口から山科を経由して逢坂山を越え、大津の打出浜(現在の滋賀県大津市松本町あたり。湖岸が埋め立てられ、びわ湖ホールなどがある)に出ると、そこからは船で琵琶湖西岸を北上した。その途上で紫式部は、さっそく歌を詠んでいる。
「三尾の海に網引く民のてまもなく立ち居につけて都恋しも(琵琶湖西岸の高島の三尾の崎で、漁のために綱を引いている漁民が、手を休めずに、立ったりしゃがんだりしているのを見ていても、都が恋しいものです)」
これまで都にしか住んだことがなかっただけに、早速、故郷が恋しくなったのだろう。また、当時の旅は危険と隣り合わせでもあったから、不安も募ったものと思われる。
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難路はまだ続き、湯尾峠(福井県南越前町)を越えてやっと越前国府(越前市)に到着した。敦賀から先で詠んだ歌は『紫式部集』に載せられていない。このため倉本一宏氏は「よほどたいへんだったのか、思い出したくなかったのであろう」(『紫式部と藤原道長』講談社現代新書)と記す。
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引用元: ・紫式部「ハァ~、ド田舎の福井クソすぎ。歌を詠む価値もなし。早く京に帰りたいわァ」 [902666507]
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