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紫式部「ハァ~、福井から早く出て京に帰りたいわァ」

紫式部「ハァ~、福井から早く出て京に帰りたいわァ」

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1: 名無しさん@涙目です。(ジパング) [CN] 2024/05/28(火) 22:05:00.51 ID:6EnaXzuC0 BE:902666507-2BP(1500)
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https://president.jp/articles/-/82010?page=1
とにかく一刻も早く福井から京都に戻りたい…父の赴任に同行して越前に行った紫式部がやっていたこと

996年、紫式部は父・藤原為時の赴任に同行して越前へ向かった。歴史評論家の香原斗志さんは「1年ほど、彼女は越前で暮らし続けるが、越前の風物を詠んだ歌や国内を移動した記録は残っていない。父の世話をしながらも、都を懐かしがってばかりいた」という――。

父娘が越前に下向したのは、長徳2年(996)の夏以降のことだった。都を出発した為時一行は、粟田口から山科を経由して逢坂山を越え、大津の打出浜(現在の滋賀県大津市松本町あたり。湖岸が埋め立てられ、びわ湖ホールなどがある)に出ると、そこからは船で琵琶湖西岸を北上した。その途上で紫式部は、さっそく歌を詠んでいる。

「三尾の海に網引く民のてまもなく立ち居につけて都恋しも(琵琶湖西岸の高島の三尾の崎で、漁のために綱を引いている漁民が、手を休めずに、立ったりしゃがんだりしているのを見ていても、都が恋しいものです)」

これまで都にしか住んだことがなかっただけに、早速、故郷が恋しくなったのだろう。また、当時の旅は危険と隣り合わせでもあったから、不安も募ったものと思われる。

難路はまだ続き、湯尾峠(福井県南越前町)を越えてやっと越前国府(越前市)に到着した。敦賀から先で詠んだ歌は『紫式部集』に載せられていない。このため倉本一宏氏は「よほどたいへんだったのか、思い出したくなかったのであろう」(『紫式部と藤原道長』講談社現代新書)と記す。

以下略

引用元: ・紫式部「ハァ~、ド田舎の福井クソすぎ。歌を詠む価値もなし。早く京に帰りたいわァ」 [902666507]

2: 山下(茸)(茸) [VN] 2024/05/28(火) 22:05:22.62 ID:9BDpPuPv0
げに?

3: 名無しさん@涙目です。(庭) [US] 2024/05/28(火) 22:06:02.22 ID:dsSNZ6yF0
あなや…

4: 名無しさん@涙目です。(ジパング) [AU] 2024/05/28(火) 22:06:32.97 ID:NyvqxUCB0
県そのものが思い浮かばなかった…

5: 名無しさん@涙目です。(公衆電話) [US] 2024/05/28(火) 22:09:38.99 ID:f4cODMC80
わかさ生活がよかった

6: 警備員[Lv.15](東京都) [US] 2024/05/28(火) 22:10:02.36 ID:2EkqQbzV0
今も昔も変わらんな

7: 名無しさん@涙目です。(みょ) [US] 2024/05/28(火) 22:10:38.17 ID:mTpCjeb10
でも福井県の老人の幸福度、老人のクオリティーオブライフは日本一だから

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