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永井真理子がデビューから現在までの37年を振り返った【写真:荒川祐史】
■波乱の半生を語ったインタビュー「後編」(※中略)
前回は、私と父親との思い出を中心にデビュー前のお話をさせていただきました。今回はその続きです。
私が本格的に音楽に目覚めたのは短大に入学してからでした。入ったばかりの頃は、保育園や幼稚園の先生を目指していました。同時に「バンド活動をやってみたい」と思い、友人のお兄さんの紹介で中央大学の音楽サークルに入りました。先輩に誘われてバンドのコーラスを始め、コンテストで上位に進むなど順調でした。ただ、メンバーが就職活動で次々と辞めてしまい、バンドは空中分解してしまいました。
私は「だったら1人でもやってやる」と完全にスイッチが入り、仲間を集めてデモテープを作りました。作曲家の前田克樹さんと出会い、彼と一緒に作った曲(『One Step Closer』)を含めたオリジナル曲数曲を持って、無謀にも1人でレコード会社にアタックしました。たまたまオフィスにいた女性に「デモテープを持ってきたので、聴いてください」と言って渡すと、ラッキーなことに「じゃあ、今から聴いてあげる」と言われ、近くの喫茶店で聴いてもらうことになりました。
すると、「すごく良いね。何よりあなたの目が好き」という感想をいただきました。私の目の奥に炎が見えたそうです(笑)。そして、「ライブを見てみたい」と言われました。私は事実上のオーディションだと思い、短大の学園祭で『One Step Closer』を歌いました。
数日後に返事があり、私のデビューが決まりました。あの時の女性は音楽プロデューサーで、のちに私の作品をプロデュースしてくださった方でした。音楽を始めたばかりの無知な学生が、わずか半年でデビューだなんて「こんな奇跡ってあるんだ」って思いました。母には「短大を卒業してからデビューするように」と言われ、その間に曲作りなど着々と準備を進めていきました。先に名古屋でラジオ番組がスタートし、デビュー前からたくさんの方に名前を覚えていただきました。保育士の資格も取り、卒業を終えて、87年7月22日、ファーストシングル『Oh, ムーンライト』でデビューしました。
その年の8月には、学生時代から準備してきたファーストアルバムをリリースしました。アルバム名は『上機嫌』で名付け親はあの女性プロデューサーさんです。全曲、私がやりたかったことを形にできた私らしいアルバムになりました。手元にレコードが届いた夜はうれしくてレコードを抱いたまま寝ました(笑)。今でもお気に入りの一枚です。
多くの人は永井真理子といえば、ショートカットに白のシャツ、穴の開いたジーンズという印象だったと思います。これは大学時代からの普段着で、いつもリュックにはバナナと和風ドレッシングが入っていました(笑)。『上機嫌』の撮影の時、ファッション雑誌のスタッフさんたちにおしゃれなスタイリングを考えていただいたんですが、「素のままが良い」という結論になり、私の普段着がトレードマークになりました。別におしゃれをしたい訳ではなかったけれど、歌番組に出た時はちょっと周りの人がうらやましく感じました(笑)。
デビューしてからの5年間でたくさんの方々に私の名前と曲を知っていただき、大きな会場でのライブも経験させてもらいました。一方で、私自身の成長と共にやりたい音楽も少しずつ変化していき、新しいことに挑戦したい気持ちが湧いてきました。社内では反対意見もありましたが、自分にうそをつくのは嫌だったので、賛同してくれるスタッフとともに改革を行いました。93年にリリースした7枚目のアルバム『OPEN ZOO』は、そんな時代を象徴する作品です。賛否は分かれましたが、自分の気持ちにうそのない今を残すことができました。
その年にバンドメンバーでギタリストの夫と結婚しました。「私の一番の味方でいてくれた人とごく自然に家族になった」という感じです。そして、小さい頃から子どもが好きだったので、息子が生まれてきてくれたことで、その後の私の音楽観にも大きな影響を与えました。出産、育児で2年間休み、復帰した時は、母としてだけでなくアーティストとしても、一回りも二回りも力強くなった気がしました。
(※以下略、全文は引用元サイトをご覧ください。)
引用元: ・【音楽】“ガールポップの女王”永井真理子の結婚、出産→海外移住→活動休止→復帰7年「まだまだこれから」 [湛然★]
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