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徳川・織田を攻めた武田軍、実際には信玄の死よりも金欠が原因で撤退か

徳川・織田を攻めた武田軍、実際には信玄の死よりも金欠が原因で撤退か
1: 名無しさん@涙目です。(SB-Android) [ニダ] 2024/04/18(木) 09:53:01.60 ID:TDKTS6ok0 BE:902666507-2BP(1500)
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武田信玄の西上作戦はないない尽くしの超ボンビー遠征だった
https://hajimete-sangokushi.com/2019/12/27/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%8E%84%E8%A5%BF%E4%B8%8A%E4%BD%9C%E6%88%A6%E8%B2%A7%E4%B9%8F/
武田信玄がボンビー遠征の末に病気で死んだのが西上作戦の真実というとにわかに信じられませんが、それは、それなりの根拠に基づいています。
信玄の根拠地である甲斐は石高二十二万石で、土地は山がちで耕作地も少なく、暴れ川が二本も走り、しかも内陸である為に、必要な物資を得るのに一苦労する土地でした。

当時の東国は開発が全体的に遅れていて、必要な物資は西国、それも堺さかい、大津おおつ、草津あしずのような港から運ばれていましたが、その主要ポイントを押さえていたのが信長です。当時東国への海上輸送は、太平洋側が伊勢と堺、日本海側が琵琶湖びわこを北上して、大津、草津でしたが、信長は、そのいずれの地域も抑えていました。

西国からの物資は荷止めされてしまい、信玄は欲しくても買えないという状況に陥ってしまいます。そのまま経済封鎖が続けば、戦う前に自滅してしまうでしょう。信玄は座して死を待つより、死中に活を求めた可能性があります。

しかし、信玄の西上作戦はその段階でも、すでに遅かったようです。

武田信玄は、戦国最強と恐れられた武田軍団を維持する為に領国内で増税を繰り返しており、国内は非常に疲弊ひへいしていました。

甲陽軍鑑こうようぐんかんには、信玄が西上作戦の軍資金の為に、未亡人や妻帯さいたいする僧侶にまでダメ押しで税金を掛けて銭をかき集めたものの、全体では銭二万一千貫(七千両)の軍資金しか集まらなかった事を記録しています。この二万一千貫という金額、信長が堺の豪商に課した矢銭やせん(軍資金)二万貫とほぼ同額、さらに信長は同様の矢銭を畿内の各都市に要求しているので、軽く十万貫は集める事が出来たようです。これだけ見ても、織田と武田の経済力の差は歴然と開いていました。

引用元: ・徳川・織田を攻めた武田軍、実際には信玄の死よりも金欠が原因で撤退か [902666507]

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>>1
信玄軍は快進撃を続け、天方城、一宮城、飯田城、格和かくわ城、向笠城むかさじょうのような徳川方の諸城を一日で陥落させます。山県昌景軍も柿本城、井平城いひらじょうを難なく落とし秋山虎繁は東美濃の要衝岩村城を落として後、信玄本隊と合流しました。危機感を持った徳川家康は、遠江一言坂で信玄と交戦しますが多勢に無勢で敗北、浜松城に逃げ込んでしまいます。
ここまで物資不足の様子は微塵みじんもない武田軍ですが二俣城ふたまたじょう攻略に入ると、雲行きがおかしくなります。城兵1200名の二俣城攻略に二カ月もかかったのです。通常、城攻めには守備兵力の10倍の兵力が必要とされていますが、武田の西上軍は3万とも言われ、これらの小城なら余裕で落とせるはずです。ところが、10月16日から始まった二俣城攻略は、12月19日まで2カ月も掛かっています。

二俣城が落ちた事を知った家康は浜松城に籠城します。ところが信玄は浜松城を攻める素振りを見せながら、結局迂回して籠城戦を回避してしまうのです。これについても、信玄は西上作戦を急いだとか、家康の存在を歯牙しがにも掛けなかったとか、敢えて浜松城を無視して家康を挑発し野戦に持ち込んだ等の説があります。

しかし、直前の1200名が籠城する二俣城でさえ、二カ月も掛かった火力不足の武田軍です。最初から浜松城は落とせないと諦め、先を急いだと考える事も出来ます。ここにも軍資金不足、弾薬不足の武田軍の事情が窺えるのです。

三方ヶ原で勝利した後、武田信玄は遠江浜名湖とうとうみはまなこ北岸の刑部ぎょうぶ村に滞在して越年、半月後の元亀四年1月10日に同地を出発し宇利峠うりとうげから三河に侵入し、豊川を渡河して野田城を包囲します。この野田城は川岸段丘を利用した堅城でしたが、守備兵は僅かに500名で、30000人を擁する武田軍なら一瞬で落とせそうでした。

実際に三河物語にも「藪やぶの内に小城あり」と言われるような小さな城だったようです。ところが、この有利な状況にも関わらず武田信玄は力攻めをせず、わざわざ甲斐から金山衆かなやましゅうを呼び寄せて地下道を掘り、水を絶ち切る方法を取ります。野田城の戦いは、1月10日以降に始まり、2月16日に城主の菅沼定盈すがぬまさだみつが城兵の助命を条件に降伏しました。

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>>2
野田城は二俣城よりもずっと小さい城であり守備兵も500人しかなく、三方ヶ原で敗れた徳川家康の後詰も期待できない状態でした。にも関わらず武田軍は、その攻略に1カ月も費やしています。実はこの頃、信玄の病状はかなり悪化しており、その事が進軍に影響を与えたと言われてきましたが、しかし進軍なら兎も角、城を落とすのは信玄の指揮でなくても、名だたる名将が揃っているのですから、出来そうなものです。
間もなく信玄は病没し、武田軍は上洛を諦めて甲斐に帰還するのですが、信玄が死ぬ前から物資不足は深刻であり、それが進軍を鈍らせて、織田包囲網を失敗させたのではないかと思います。

これは信玄没後の長篠の戦いの前ですが、武田方の武将である穴山梅雪あなやまばいせつが配下の商人に対し、敵方の手下のふりをしてでも敵の商人と取引せよ、うまく鉄や鉄砲を購入できれば、馬は二百でも、三百でも用意する。と命じていますし、年代は不詳ながら信玄も、富士御室ふじおむろの神主に粗悪な銭があったら鉄砲の玉にするから収めよと命じています。

やはり、武田軍は城攻めに必要な弾薬や鉄砲が絶望的に不足したまま、西上作戦を取らずを得なくなり敗北を喫したのだと思います。追い詰められていたのはどちらかと言えば、武田信玄の方だったのです。

終わり

3: 名無しさん@涙目です。(群馬県) [DE] 2024/04/18(木) 09:54:46.67 ID:6NJydL9B0
はい
5: (庭)(庭) [US] 2024/04/18(木) 09:59:36.76 ID:4m+klPMm0
他の文明、他の時代でもこんな感じで泡のように小支配者が湧いては、あるいは併呑し或いは滅亡しながら時代を作っていったんだろうな
力不足を知りつつもいま仕掛けなければ相手が手の届かない高みまでいってしまう、という焦りなんかは古今相通ずるものだろう
6: 名無しさん@涙目です。(東京都) [HK] 2024/04/18(木) 10:03:30.56 ID:t0y5LtWi0
あれだけ武将やられてるのに撤退理由が金欠ですはないだろ
7: 名無しさん@涙目です。(東京都) [HK] 2024/04/18(木) 10:04:08.10 ID:t0y5LtWi0
いー長篠ではないのねスマン

コメント

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