4/6(土) 19:02 平野 悠(ダイヤモンド・オンライン)
● ロフトの第1号店が生まれた 1971年はフォーク全盛期(※中略)
● 日本のフォークの伏線として 重要なのがグループ・サウンズ(※中略)
● “日本語ロック論争”の構図は 内田裕也VSはっぴいえんど
平野 アンチ芸能界というのが大きなポイントだったわけだ。
牧村 そうなんです。ただし、エイプリル・フールの後に3人が結成したヴァレンタイン・ブルーはすぐに頓挫してしまいます。1969年の暮れに渋谷東横劇場で初演が行なわれた『ヘアー』というロック・ミュージカルに小坂忠が出演することが決まってしまって。
しかし『ヘアー』のプロデューサーだった川添象郎(当時は川添象多郎)や主役の一人を務めた加橋かつみらが大麻取締法違反容疑で逮捕される事件が起きてしまった。そこで細野と松本は大滝詠一を誘った。その後、「リードギターがいないね」という話になり、高校生の鈴木茂に大学進学を諦めさせてバンドに呼び込んだ。と、メンバーが語っています。
平野 その頃の大滝さんは鳴かず飛ばずでしょ?
牧村 もちろん。当時の細野さんと松本さんはハコバンをやっていて、一晩に3回くらい演奏すると5万円ほどの月収があったそうです。1970年当時の大卒初任給がおよそ4万円弱(現代の価値に換算すると14万円強)なのでかなり良い収入だったけど、大滝さんは岩手から出てきて、東京で就職したんです。
その後、早稲田の第二文学部に進むんだけど、音楽への道が諦められず、いろんな音楽家たちとの交流の中で細野さんや松本さんと知り合い、ヴァレンタイン・ブルーへ参加しました。はっぴいえんどになったとき、今でいうインディーズというか、芸能界の影はなくなっていたんですが。
平野 GSの流行から始まって、はっぴいえんどが出てくるちゃんとした理由があったんだね。
牧村 はい。そして、1970年8月に通称・ゆでめんと呼ばれるファースト・アルバム『はっぴいえんど』、1971年11月にセカンド・アルバム『風街ろまん』という名盤が発表されるのですが、ちょうどその頃、日本語ロック論争というものが巻き起こるんです。中村とうようさんが編集長だった『ニューミュージック・マガジン』(現・『ミュージック・マガジン』)で繰り広げられた、内田裕也、大滝詠一、松本隆らによる「日本語はロックのメロディに乗らない」「ロックも、自分たちの言語でやらなければ意味がない」という論争です。
その前年に『ニューミュージック・マガジン』で日本のロック賞の上位にランクされたのが、主にはっぴいえんどを始めとする日本語で歌うアーティストだったんですね。それで、英語でロックをやるべきと主張する内田裕也が「なんではっぴいえんどみたいにヘタなグループが1位になれるんだ!? こんなレコードのどこが良いんだ?」と噛み付いた。
平野 裕也さんも元はナベプロ所属(現・ワタナベエンターテインメント)で、つまり芸能寄りだった。
牧村 そう、GSブームを牽引したタイガースをスカウトしたのも裕也さんだったし、ここでもやはり芸能と脱芸能という対比構造に繋がるわけです。裕也さんにしてみれば、ジョー山中や麻生レミといった実力派シンガーを揃えたフラワー・トラヴェリン・バンドというバンドをプロデュースして、ロックの世界へ打って出るというときに、日本語のロックが評価されるなんて! という思いもあったんでしょうけど。
でもその論争があって日本語によるオリジナルのロックを体現するバンドとして、はっぴいえんどが後に影響を与えるグループになったのは確かですね。
(※以下略、全文は引用元サイトをご覧ください。)
引用元: ・【音楽】ロックは英語で歌うべき?内田裕也vsはっぴいえんど「日本語ロック論争」が音楽史を変えた [湛然★]
KPOPは韓国語
だから声楽の世界では人気がない。
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