共同通信のインタビューでも、高市政権の政策に「間違っている」「あっていいと思わない」と注文を付けた。
自民党内には「おとなしくしていればいいのに」と眉をひそめる人もいる。退任直後の元最高権力者は、後継政権に不満があっても「黙して語らず」が永田町の見識とされているからだ。
なぜ石破は批判されても、嫌われても「黙らない」のか。「あの戦争を二度と繰り返さない」。政治家人生を貫く、このぶれない信念が背景にありそうだ。(敬称略、共同通信=渡辺学)
石破が発言を続ける理由を探ると、政治家としての「原点」が浮かび上がる。1981年、三井銀行(当時)の一行員だった石破は参院議員の父・二朗を亡くした。東京の葬儀で葬儀委員長を引き受けたのは「闇将軍」と呼ばれ権勢を誇っていた元首相・田中角栄。
後日、お礼のため東京・目白の田中邸に足を運んだ24歳の石破に、田中はこう言い放った。
「今すぐ会葬お礼の名刺を作って、鳥取の葬儀に来てくれた3500人を1軒1軒、全部回れ。君がお父さんの遺志を継ぐんだ」
虚を突かれ「参院議員の被選挙権は30歳」「政治家にはなるな、が父の遺言だった」と精いっぱい反論する石破に、田中は目の前の机をばーんとたたき、たたみかけた。
「君は衆院選に出るんだ。いいか覚えておけ。日本の全てのことは、この目白で決まるんだ!」
田中の迫力に気おされ、政治の道に飛び込んだ石破。そんな「政治の師」の最大の教えが「あの戦争に行ったやつがこの国の中心からいなくなった時が怖い。だから、よくよく勉強してもらわねばならない」だった。
「あの戦争」とは1937年に始まった日中戦争と、1941年開戦の太平洋戦争だ。田中にも旧満州への出征経験があった。「あの戦争に行ったやつがこの国の中心からいなくなった時が怖い」。この言葉は「今も耳にこびりついている」(石破)。
時代が平成から令和に流れる中で容赦なく世代交代は進み、田中の言う「あの戦争に行ったやつ」は政治の中枢から遠ざかった。石破は「平成という時代は何だったのか」というテーマで講演すると「世の中心から多くの戦前生まれの方がリタイアした。戦後が終わった」と総括する。戦争の記憶と体験の継承は、永田町の課題でもある。
▽小選挙区制導入への警告
ところで、政権批判は野党だけの役割なのだろうか。かつての自民は、党内で権力闘争と重なる形での激論がたびたび交わされた。党の体質変化のきっかけを、1996年の衆院小選挙区制導入に求める声は根強い。
当時、強く反対していた元首相・小泉純一郎は「こんな選挙制度にしてみろ。党本部と首相官邸の言うことしか聞かない国会議員ばかりになるぞ」と小選挙区推進派の若手議員に予言していた。一つの小選挙区からの当選者が1人になれば、政党の公認を得られるかどうかが死活的に重要な問題となる。必然、公認権を持つ党執行部の力が強まり、政権の意向に意見する国会議員がいなくなるという論法だった。
石破は、自民の変容を「キジも鳴かずば打たれまい、で物を言う人が減った」と証言する。
太平洋戦争の端緒を開いた米ハワイの真珠湾攻撃から84年目に当たる昨年12月8日。共同通信は首相退任後の石破にインタビューした。自身の政権運営や今の政治課題をひとしきり語った後に口にしたのは、やはり「あの戦争」だった。
「もし1941年12月8日に世論調査があったら、日米開戦を支持する世論は95%には届いただろう。米国との戦争はやめろ、と言うのは非国民だった」。独り言のようにつぶやくと、そのまま虚空を見つめた。
自民にいながら野党のように振る舞い、時の政権に物申してきた。高市政権への直言もこの流れに沿うものだ。一時は離党をも経験した石破は「永田町のはぐれ者」と言っていいかもしれない。よく耳にする人物評は「後ろから鉄砲を撃つ」「裏切り者」だ。
昨年12月のCS番組でこの点を問われた石破は「そういうのが嫌だからみんな黙っちゃう。そうすると、何も意見を言わない政党っていうのは一体何なのかね。
https://news.yahoo.co.jp/articles/4ab4be0e967584ca77bae049e358767ffcf426b1?page=1
引用元: ・【批判されても、嫌われても、前首相・石破茂が黙らない理由】共同通信のインタビュー「あの戦争を二度と繰り返さない」・・・首相再登板へ意欲
お前、マジ要らない。
いいからすぐに中革連に行けよ。
そっちの方が主義主張があっているやろ
インタビューの最後、石破に首相再登板への意欲を問うた。「もういい。ただ『やれ』と言われた時『できません』と返すようなら、国会議員を続ける意味はない」。
笑みをたたえながら答えた言い回しは、就任前と一言一句変わらなかった。
なにひとつだ
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