(岩間一弘、東洋史学者)
(抜粋)
餃子はもともと中国北方の食べ物だが、日本に伝わって国民食になっている。近年には、日本式の焼き餃子が欧米でも広まった。
ジンギスカン料理が、日本の帝国主義に関わる料理だとすれば、餃子は、帝国主義のあとの時代に関わる料理である。
満洲からの引揚者料理から始まった「餃子ブーム」
敗戦前に日本帝国の版図に含まれた植民地・占領地に居住していた日本人は350万人近くに及び、そのうち満洲からの引揚者は120万人をこえた。これらの人々が、戦後の日本において餃子を流行させた。
占領期の1948年から、アメリカが日本の再建支援として大量に輸出した余剰小麦が、餃子の皮にも使われるようになった。
1946年に帰国した先述の石原秋朗によれば、餃子は「引揚者料理」であり、1947年頃から引揚者たちが渋谷や神田で店を開き、一部の「中国郷愁患者」たちに知られた。
さらに1954年頃から急に流行し、「東京の軽食店は中華そばに次いでギョーザブームの観を呈している」という。
喜劇役者の古川緑波によれば、渋谷のバラック建ての小さな店「有楽」(友楽の誤りか)が一番早く、「ミンミン」(珉珉のこと)などが続いた。これらの餃子店は、安くて油っこいものを食べさせるので流行ったという。
珉珉の創業者・高橋通博は、中国の青島に生まれ、大連で育ち、北京で敗戦を迎えた。
1948年、東京都が引揚者の自活を助けるために渋谷の百軒店という商業地を貸し出すと、高橋はそこで「友楽」という屋号のバラック建ての餃子店を開業した。
さらに彼は、渋谷の「恋文横丁」に「珉珉(珉珉羊肉館)」(1952〜2008年)という店を構えた。
渋谷の恋文横丁が「日本式餃子」始まりの地
珉珉が店を構えた渋谷の「恋文横丁」は、第二次世界大戦後、在日米軍将兵と恋仲になり、朝鮮戦争(1950〜1953年)などで離れ離れになった日本人女性のための恋文の代筆・翻訳屋が現れたことから名づけられた。
そこには餃子店が密集し、各店舗が「味一番」を競い合ったことから、「ニンニク横丁」とも呼ばれた。珉珉もニンニクをたっぷり入れて、「うちの餃子はスタミナがつく」とアピールしたという。
こうして渋谷を発信地として、餡のなかにニンニクを入れて焼く日本式餃子のスタンダードができていった。
餃子は、1953年頃から本格的に流行し始めた。
餃子はまず東京で人気となり、1970年代でもまだ関西より東京で人気が高かった。
ちなみに、餃子は冷凍食品によっても普及した。
1960年代からまず冷凍シュウマイの生産が始まり、1960年代後半に日本冷蔵(現・ニチレイ)が機械メーカーと共同で成型機を開発し、コスト削減と量産化に成功した。
続いて冷凍餃子も、同じ機械メーカーの成型機で生産されるようになった。
とくに1972年に発売された味の素の「ギョーザ」が、家庭用冷凍食品として超ロングセラーの優良商品になっている。
引用元: ・日本式餃子発祥の地は東京・渋谷だった!満洲引揚者によって生まれた戦後の「餃子時代」 [12/14] [昆虫図鑑★]
何処が発祥かわからんだろ?
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