2025年10月09日
Aぇ! groupの草間リチャード敬太(29)が新宿のビルで下半身を露出して逮捕された問題。ライターの冨士海ネコ氏は、これまでの男性タレントによる「露出」事件を引き合いに出しながら、彼らの「衝動」の正体について分析する。
(中略)
草間さんのケースと事情は違うかもしれないが、今回、「脱いだ」ジャニーズ(現STARTO)タレントと聞いて、かつての草なぎ剛さんの事件を思い出した人も多いようだ。
SMAP全盛期に公園で服を脱ぐなり、「慎吾~」と叫びながら前転していたという草なぎさんの話は、今となってはほほ笑ましくすら思える。だが、笑い話にできないほど、この「脱ぎたがる男性タレントたち」は多い。彼らの行動には共通した心理が潜んでいるように思う。
芸能人にとって、日常は常に「監視される生活」だ。街を歩けばスマホで撮られ、SNSでは一挙一動が切り取られる。草間さんのように、グループ活動を背負いながらテレビや舞台でも活躍する立場なら、常に周囲の視線を意識せざるを得ない。草間さんも10月から所属するグループの関東レギュラー初の冠番組が始まっただけでなく、年明けには話題作「おそ松さん」の実写版映画も公開を控えていた。
プレッシャーを感じる窮屈な日々の中でアルコールが入り、人目の少ない場所に身を置いたとき、抑えつけていたものが一気に噴き出すこともあるだろう。心理学では、こうした行動を「脱抑制」と呼ぶ。ストレスや緊張が強い人ほど、ある瞬間にすべてを脱ぎ捨てたくなる衝動に駆られるという。
「かつて草なぎさんも2009年の事件後の謝罪会見で、「(自宅で香取慎吾さんと)飲んだ時に、「パンツ1枚になったことはありました」と語っていた。脱ぐことは、羞恥ではなく「解放」の行為。芸能人という過剰な自己管理を強いられる仕事において、「公衆の面前で脱ぐこと」が一瞬の自由を意味するのかもしれない。
ストレスの暴発とも限らない?
そしてもう一つの要素は、「男同士の絆」の中での競い合いではないだろうか。
ガーシーこと東谷義和氏が、服を脱いでカラオケに興じる小栗旬さんの写真を投下し物議を醸したこともある。周囲には数人の姿があり、プライベートの飲み会でハメを外した一コマのようだった。小栗さんサイドはこの写真について公式なコメントは出さず黙殺したが、当時は大騒ぎになったものだ。
小栗さんのケースでは、女性を辱めようというよりも、同席している男性たちに対する「場を盛り上げたい」「仲間の中心でありたい」という意識が透けて見える。わたしの周りにもいたが、飲み会や結婚式で脱ぎ出す男性は年齢問わず一定数いた。服を脱ぐことで男たちの中での恥を超えた「勇気」を示す。それは小栗さんのような、誰かの機嫌を取る必要もないような、地位と知名度の高い男性ほど「勇気」とみなされる。草なぎさんが事件を起こした時も、番組MCでコンビを組んでいたユースケ・サンタマリアさんが「剛がやらかしましてね」と、どこか愉快そうに言っていたのを思い出す。
サービス精神として、あるいは勇気の証しとして……。生き馬の目を抜く芸能界はまだまだ男社会である。何かと脱ぐ男性タレントたちが多いのも、うなずけるのではないだろうか。
脱ぐ芸能人は「見せたい」より「見られたくない」? 裏にある孤独とプレッシャー
男性タレントの露出事件を「またか」と片付けるのは簡単だ。だが、その背景には、過剰な期待、ファンとの距離感、SNS時代の監視、芸能界という根強い男社会での孤独があるのではないか。彼らが脱ぎたがるのは見られ過ぎた人生の反動であり、その欲求は「誰にも見られたくない」という心の叫びなのかもしれない。
草間さんの「露出」も、笑いでも反抗でもなく、「自分を取り戻したい」という無意識のSOSだったとしたら同情する。芸能人という職業は、華やかさの裏で「人間らしさを奪われる仕事」だ。一般的に芸能人は目立ちたがり屋だとはいうものの、四六時中カメラにさらされる生活の重圧というのは一般人には計り知れないものがある。「誰でもない自分」に戻り、自分が「芸能人ではない、ただの人間」である感覚を取り戻したかったという理由が背景にあったのではないか。
先述のように、今回の一件は事件というよりはアクシデントだったのではという見方も出ているが、どちらにせよ、人前で脱げばそれはニュースになり、「不祥事を起こした芸能人」として注目を集めてしまう。自由になろうとした瞬間に、また束縛される。その矛盾が、現代の芸能人が抱える深い問題を物語っている。
※全文はソースで↓
https://www.dailyshincho.jp/article/2025/10091100/
引用元: ・なぜ男性タレントたちは脱ぎたがる? Aぇ! group草間リチャード事件に見る「衝動」の正体 [少考さん★]