ミニスカートと、白のハイソックスをトレードマークに高度経済成長期の日本に舞い降りた香港の妖精。その輝きは古希を迎えても健在だ。健康的な体形を維持するアグネスは「今でも50年前の服を着ることができます」と胸を張った。
1972年、デビュー曲「ひなげしの花」が大ヒット。17歳で一躍、トップアイドルになった。「香港ではフォークシンガーだったので、ポップな『ひなげしの花』はしっくりきてなかったんです。でも、周りのスタッフは分かっていたんでしょうね。私はもともと声が高いですけど、歌い出しの『丘の上…』は高音から始まる。それが狙いで、私の声を生かす曲だった」
その狙いが当たり、翌73年にNHK紅白歌合戦に初出場。当時の所属事務所「渡辺プロダクション」の渡辺晋社長から「紅白に出たら、歌手として認められたということだよ」と言われ、「すごいことだと初めて気付きました。光栄でした」と懐かしんだ。
来日から半世紀以上、当時は日本で長く生活するとは思っていなかった。「冒険心で気楽に来たんですよね。ワクワクして好奇心いっぱいでした」。ファンの熱狂ぶりは想像以上のもので「声援がものすごく大きくて、ファンレターにも励まされました。アメリカンスクールで一緒だった(元歌手の)南沙織さんに日本のことを教えてもらい、助けていただきました。日本が第二のふるさとだけど、どちらが第一か第二か分からないくらい」と感謝した。
携帯電話もインターネットもない時代、親元を離れて寂しい思いもした。「渡辺社長の家に住んでいて、国際電話がものすごく高かった。しかも予約制。事前に決めた時間に家にいて、取り次ぎの電話が来るのを待たないといけなかった。香港への電話は1か月に1回、3分しか話せないから、家族にあいさつするだけで終わっちゃった」。次第に日本の生活にも慣れ、食事が寂しさを埋めた。「おいしくて。焼き鳥、釜飯、お好み焼きが大好きになりました」と笑顔で語った。
父の意向もあって、学業にも熱心に取り組んだ。日本では上智大国際学部に入り、留学したカナダ・トロント大では社会児童心理学を専攻。米国・スタンフォード大では教育学の博士号を取得した。
「若い頃に芸能だけの生活じゃなかったから、幅広い視野を持つことができた」。それが結果的にバラエティー番組でも生かされた。「天然ボケの先駆けみたいになって、ウケたんですよね。歌以外でもバラエティーで第二の黄金期を迎えることができました」
仕事を続けながら、育児にも全力投球。3人の息子たちはスタンフォード大に合格した。「子育てで大事にしたのは、おおらかな気持ち。他の家の子と比べないこと」。試験前でも「勉強しなさい」と言ったことはない。「勉強はつらいと思わせないことが大事なんです。今では孫も生まれて、親バカではなく、ばばバカです」
歌手として成功してからも「何のために歌っているんだろう」と悩むことがあった。「自分だけでなく、人のために何かできないか」と考えると、視界がクリアとなった。ボランティア活動に力を注ぐようになり、日本ユニセフ協会大使として飢餓に苦しむアフリカ諸国やイラクなどの紛争地にも足を運んできた。「行く度に遺書を書いているんです。よく『怖くないですか?』と聞かれますけど、こういう活動をして死んだら本望。悔いはないです」
50代で乳がんを患い、人生観が変わったことも影響している。早期発見だったが、手術を受けて放射線治療、ホルモン治療を経験。現在も定期健診に通う。「生きているのは当たり前じゃない。毎日、感謝の気持ちを持って、やりたいことを早くやろうと思うようになりましたね」
海外を知ることで、日本の魅力を再発見した。「日本のレストランに入って、大失敗することはありますか? 適当に入っても、適度においしい。文化的にも礼儀正しい。四季があって景色が素晴らしく、文化的な財産も豊富にある。安全で清潔。とっても幸せな国です。世界中の人が日本に憧れているんです」
続きはソースで
https://news.yahoo.co.jp/articles/0ae8b024fad6c02e0ca5c3adcb6c5b649a015a67
引用元: ・アグネス・チャン「行く度に遺書を書いている」ユニセフ活動で紛争地にも…「こういう活動をして死んだら本望」[9/6] [昆虫図鑑★]
ひでぇw
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