https://www.gqjapan.jp/article/20250903-re-nissan
日産の未来は、きっと明るい──“深い愛情”が導く、再生への道とは?
経営再建計画「Re:Nissan」を発表した日産自動車(以下、日産)の未来とは? 同社のイヴァン・エスピノーサ社長への独占インタビューと共に、モータージャーナリストの大谷達也が考える。
By 大谷達也 2025年9月3日
引用元: ・日産への深い愛 エスピノーサ社長の独占インタビュー なぜこの人が今まで舵取をしなかったのか [618719777]
(前略)
今年4月に日産の代表執行役社長兼最高経営責任者に就任したイヴァン・エスピノーサである。
メキシコのモンテレイ工科大学で機械工学部を修めたイヴァン・エスピノーサは、24歳でメキシコ日産に入社すると商品企画を担当。2016年以降は日産の社員としてその手腕を発揮し、46歳の若さで現職に就いた立身出世の人である。
もっとも、テレビやネットで登場するエスピノーサといえば、追浜工場閉鎖を伝える記者会見で撮影されたものばかり。そのときの表情から生真面目で堅苦しいイメージを抱く向きも少なくないだろうが、日産の座間事業所内にある「日産ヘリテージコレクション」を訪れた際の彼はまるで少年のようにキラキラと瞳を輝かせていた。
「子どもの頃、このZに憧れていて、いまでも本当に欲しいと思っています」「Zの次に好きだったのがシルビア。なかでもS15(7代目)には強く惹かれます」
日産ヘリテージコレクションに並んだ名車を指さしながら、エスピノーサはまくしたてるように語り続けた。そして、日産ヘリテージコレクションでメンテナンスに携わるスタッフを見つけると、自ら歩み寄って「いつも私たちの“赤ちゃん”の面倒を見てくださり、ありがとうございます。一緒に写真を撮りましょう」と、声を掛けるほど、この日の彼は実に生き生きとしていた。
彼の生まれ故郷であるメキシコと日産の関わりについて訊ねると、情熱的な口調で次のように語り始めた。
「メキシコ日産が設立されたのは1961年で、日産が海外に作った最初の生産施設です。だから、私が子供の頃にはすでに街中を日産車が走っていて、とても身近な存在でした。クルマ好きだった私の祖父も、メキシコでは『ツル』と呼ばれていた7代目『サニー』を持っていたほどです」
そんな環境で育ったエスピノーサがクルマ好きになったのはごく自然なことだったという。
「祖父だけではなく父も機械系のエンジニアだったので、私も自然とクルマに興味を持つようになりました」
彼の生まれ故郷であるメキシコと日産の関わりについて訊ねると、情熱的な口調で次のように語り始めた。
「メキシコ日産が設立されたのは1961年で、日産が海外に作った最初の生産施設です。だから、私が子供の頃にはすでに街中を日産車が走っていて、とても身近な存在でした。クルマ好きだった私の祖父も、メキシコでは『ツル』と呼ばれていた7代目『サニー』を持っていたほどです」
そんな環境で育ったエスピノーサがクルマ好きになったのはごく自然なことだったという。
「祖父だけではなく父も機械系のエンジニアだったので、私も自然とクルマに興味を持つようになりました」
ある日、“イヴァン・エスピノーサ少年”が、日産好きになる決定的な出来事が起きる。
「300ZX(Z32型と呼ばれた4代目フェアレディZ)を街で見かけたのです。たしか1990年頃ですが、当時15歳だった私は『なんだ、このクルマは!』と、大いに驚きました。外観は、とてもシンプルなのに空力学的で、目力の強いヘッドライトからはハイテクなイメージが伝わってくる。しかも、車内は飛行機のコクピットを思わせるデザインで、『こんな日産車もあるんだ』と、再び驚きました。この頃、すっかりクルマ好きになっていた私はすぐにスペックを調べましたよ。そうしたらツインターボエンジンを積んでいるのがわかって、本当にびっくりしました」
たしかに日産は、サニーやノートのようなコンパクトカー作りが得意という側面と、フェアレディZやGT-Rに代表されるハイパフォーマンスカーで人気を博してきたというふたつの側面がある。エスピノーサ社長は、どちらの日産が好きなのか?
「どちらかと言われれば、フェアレディZを作ってきた日産により強く惹かれますよね。なにしろ、私はこのクルマをきっかけにして日産好きになったのですから。日産が持つテクノロジー、エンジニアリング能力、そしてハイパフォーマンス性などに心を奪われました。やがて工科大学を卒業して日産に就職したのは、私にとってごく自然な選択でした」
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