子どもたちへの愛情から生まれた「ポン菓子機」…食糧難の戦時下、旧家の「お嬢さん」は男装して北九州へ

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1: 蚤の市 ★ 2025/08/14(木) 07:41:11.26 ID:LCWLOPG39
戦争を生きて<2>

 過酷な戦争体験に胸を焼かれながら、戦後を生き抜いた人たちがいる。その軌跡をたどる。

 〈ポン菓子機こそ我が命〉。菓子機販売会社「タチバナ菓子機」(北九州市)の事務所には、創業者の吉村利子さん(99)がしたためた書が飾られている。さっくりして、ほんのり甘い。米を膨らませてできたポン菓子は、子どもたちのおなかを少しでも満たしたいとの思いの結晶だ。

 吉村さんは1926年、大阪府八尾市の旧家「橘家」に生まれた。その前年、繊維産業などで栄えた大阪市の人口は日本一となり、「大大阪」と呼ばれて活況を呈していた。橘家は蔵が四つある豪邸で、「いとはん」(お嬢さん)と呼ばれて育った。女子専門学校では、物理・化学を学んだ。

 太平洋戦争が激化し、男性教員は徴兵されていった。「自分が役に立たないといけない」。開戦から2年が過ぎた頃、代用教員として地元の国民学校の教壇に立った。そこでやせ細った子どもたちの姿を目の当たりにしたことが、人生を変えた。

 燃料不足で子どもたちは生煮えのひえやあわを食べ、始終おなかを壊していた。隣近所から集めて学校に持って行った新聞紙でお尻を拭いてあげるのが日課。空襲で防空 壕ごう に逃げ込んだ時に抱きしめた教え子の腕の細さにがくぜんとしたこともあった。

 子どもたちと接する中で思い出したのが、後に「ポン菓子」として知られるようになるお菓子だった。4歳の頃、近所に売りに来ていたのを見に行き、白く小さな粒をこっそりつまんで家に帰った記憶があった。

 蒸気圧を利用して穀物を膨らませるのが原理。「少ない燃料で消化の良いものを食べさせられる」と思った。知人の大学教員に相談し、一緒に図面を作製した。しかし、兵器製造のため金属は供出され、材料の鉄が手に入らなかった。

 「北九州の八幡に行ったら鉄がある」。大学教員の言葉に、北九州に行くことを決めた。「いとはん」の思いつきだと家族から大反対を受けたが、決意は揺るがなかった。「とにかく、子どもたちにポン菓子を食べさせたい一心でした」

 身の安全のため、髪を短くして男装し、図面を手に単身、北九州に渡った。町工場を訪ね歩いた。「職人はみんな酒に酔っていて顔は油だらけ。立派な人たちが多いと思っていたのに、全然違った」。それでも、何人かが興味を持ってくれた。その中には後に夫になる文夫さん(1967年に52歳で死去)もいた。45年春、試作品が完成。夏には1号機ができた。

 「ポンッ!」。木づちで機械をたたくと、大きな破裂音がして、白い煙とともに膨らんだ米が一斉に飛び出す。できあがったお菓子を「ポン菓子」と名付け、後に機械の特許も取得した。

ポン菓子とともに生きる決心
 戦後の食糧難に見舞われる中で、「吉村式ポン菓子機」は「子どもたちがおいしいと喜んでくれる」と全国から注文が相次いだ。各地から来たブローカー風の人たちが一人で5、6台も買っていくほどだった。

 配給の米を持って行くと、すすで顔を真っ黒にしたおじさんがポン菓子を作ってくれる光景は、日本のあちこちで見られた。手軽に店を始められ、復員兵の仕事にもなっていた。子どもたちの笑顔が何よりもうれしく、「ポン菓子とともに生きていこう」と心に決めた。(略)

吉村利子さんの足跡(略)

読売新聞 2025/08/14 05:00
https://www.yomiuri.co.jp/sengo/20250813-OYT1T50164/

引用元: ・子どもたちへの愛情から生まれた「ポン菓子機」…食糧難の戦時下、旧家の「お嬢さん」は男装して北九州へ [蚤の市★]

3: 名無しどんぶらこ 2025/08/14(木) 07:43:06.46 ID:hvVKpIBJ0
女ではない、タチバナだ。

4: 名無しどんぶらこ 2025/08/14(木) 07:44:12.61 ID:X1caQTr/0
今の日本なら爆撃音を連想すると叩かれてたかもしれんな

5: 名無しどんぶらこ 2025/08/14(木) 07:44:12.78 ID:3czwHLjf0
大阪府八尾市
やんちゃな所ですね分かります

7: 名無しどんぶらこ 2025/08/14(木) 07:48:18.68 ID:UtU6ByYQ0
町工場の従業員がお嬢様と結婚できてよかったな

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