8/2(土) 21:10 婦人画報
撮影=三浦憲治 文=相澤洋美 編集=吉岡博恵(婦人画報編集部) 『婦人画報』2025年8月号より
https://news.yahoo.co.jp/articles/fea51bf2e1cb431db30812539f4ddc0b391c94ea
撮影=三浦憲治

ミュージシャンとして得た収益約21億円を被災地の復興のために寄付し、“あの戦争について”ふるさとの小学生と振り返る授業を通じて曲を発表する──。吉川晃司さんがいま、あらためて伝えたい平和へのメッセージです。
幸せってなんだろう。その答えは、この手からきっとはじまる ──府中小学校の子どもたちと作詞した「あの夏を忘れない」より
吉川晃司さんの眼下に広がる平和記念公園。戦後、1950(昭和25)年から整備が進み、1955(昭和30)年に完成。公園内の原爆供養塔には、いまもなお身元の判明しない約7万柱の遺骨が眠る。
【被爆2世のバッジを着けて】父の被爆手帳を目にして、間接的に理解した
原爆死没者の慰霊と世界恒久平和を祈念して開設された平和記念公園。連日、平和を願う人々が世界各国から訪れるが、かつてここに広島市一番の繁華街・中島地区があったことを知る人は少ない。
広島市出身で、平和への思いを強く抱いている吉川晃司さんも、「平和公園の以前の姿が、東京でいえば渋谷か新宿かというにぎやかな場所だったと知ったときは衝撃を受けた」と話す。
吉川さんの祖父母が営む吉川旅館は、川を挟んで原爆ドームの真向かいに建っていた。県下最大の格式ある旅館で、「子どものころは出征する兵隊を送り出す宴会が毎日のように行われていた」と吉川さんの父・正俊さんは手記に綴っている。
戦況の悪化で旅館を譲り、一家は爆心地から約5キロメートル北東に位置する府中町へと移り住んだため、吉川さんは大人になるまで吉川旅館が爆心地の正面にあったことを知らなかった。
「戦争の話は聞いていましたが、原爆については親からも親戚からも耳にしたことがなかった。晩年になって、父がポツポツ話すようになったのは、自分の死を意識する年齢になったからなのかどうか。真意はわかりません」父親が入市被爆者だということを長いこと知らずにいた吉川さん。
「父の被爆手帳を目にして、間接的に理解しました。父はおそらく原爆直後の変わり果てた故郷を見たのでしょう。(※以下略、全文は引用元サイトをご覧ください。)
引用元: ・【音楽】吉川晃司さん、故郷・広島へ「父はおそらく話したくもなかった…」入市被爆者だと知らなかった父親、平和への思い #戦争の記憶 [湛然★]
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