好書好日6/10(火)15:00(※抜粋)
https://book.asahi.com/jinbun/article/15829940
■各地から集まった学生
――(※中略) 楽しくもあった近大を辞められたのはなぜですか。
柄谷 法政では僕は基本的に英語教師でしたが、語学教師というのは楽だけど退屈。近大に移ってはじめてその時に考えていることを自由に話せるようになって、それはそれでよかったけれど、問題もあってね。
――どんな問題が?
柄谷 僕は、自分がその時考えていることしか教えられないんです。過去に書いたことを教えるのは無理。よく毎年全く同じ授業をやっている人がいるけど、僕は絶対にできない。過去の仕事には飽きちゃってるから。だけど、今考えていることを話してしまうと、気が済んじゃって、今度は書く気がしなくなってしまうんです。これは、物書きとしては困ったことでした。
――確かにもったいないです。ソシュールやヴィトゲンシュタインは、講義ノートが後に本にまとめられましたよね。柄谷さんはノートなどは残していないんですか?
柄谷 ないですね。いま思うと、本になるようなテーマもたくさんあったんだろうけど。法政で語学教師に甘んじさせられていたのは、一種の冷遇だったわけだけれど、物書きとしてはむしろよかったのかもしれないね。
■「必読書」で訴えたかった教養の重要性
――忘れられないのが、『必読書150』。国際人文科学研究所ができるときに、柄谷さんや作家の奥泉光さん、造形作家の岡崎乾二郎さん、浅田彰さんといった、近大の教授やゆかりのメンバーが編者になって作った、古典を中心に人文社会科学・海外文学・日本文学から50冊ずつ集めたブックガイドです。柄谷さんの序文で「このリストにある程度の本を読んでいないような者はサルである」という強烈なくだりがあるんです。大学生のときに手にとって、聞いたこともない本もかなりあって震え上がりました(笑)。今見てもかなり難しいものも入っていますが。
柄谷 実は、筆者も全員「サル」なんですよ(笑)。サルがサルに説教するというのがミソ(笑)。僕も読んでない本が結構入っています。
――そうなんですか。結構真に受けていました。
柄谷 でも、古典を読むのは本当に大事なんですよ。1968年以降、新左翼運動やポストモダンの風潮のなかで、しきりに知識人や教養主義が批判されて、古典なんて読む必要はないという風潮が蔓延していた。奥泉君がそれを嘆いていて、そこからこの本のアイデアが出たのだったと思います。近大では、学生だけじゃなくて、教師たちともよく飲んだりして集まっていたから、そういう場から生まれた企画だったんじゃないかな。
――単に教養主義を復活させようということではない、とも宣言されています。
柄谷 教養主義なんて最悪です。ただの権威主義だから。古典は、権威だからじゃなくて、ずっと人類が受け継いできた共通言語だから大切なんです。昨今は、一読しただけで意図や内容が簡単に分かってしまうような、薄っぺらい本ばかりでしょう。古典は、何度も読んでいるうちにだんだん染みてくる、何十年後にふと腑に落ちる、そういうもので、辛抱がないとつきあえない。だけど、考えるということは、そういう地道な営みからしか出てこない。少なくとも、現実を変える力を持つような思想は出てこない。
――本を読んで考えるのはいいけども、その思想を実践するときに必要なのが、教養じゃないのか、ということですね。その“教養”というのが“古典”ということになるのでしょうか。
柄谷 そうですね。思想というものは、過去の作品との関わりの中で生まれるものです。たとえばデリダもドゥルーズもフーコーも、結局マルクスやフロイトの読み直しをやっている。今も僕は、マルクスも読まないで何が考えられるのか、と思ってますよ。今マルクスを読んでいる人たちは、ほとんどの場合、本当に読んでいるようには思えない。マルクスだろうと誰だろうと、自分たちの薄っぺらな論理にひきつけて矮小化するだけ。マルクスが自己啓発の教師にされている(笑)。古典は、自分の論理で捉えられないものだからこそ読む価値がある。自分の論理にひきつけるんじゃなくて、自分が相手の論理のなかに入っていくという読み方じゃないと、意味がない。
(※以下略、全文は引用元サイトをご覧ください。)
必読書150 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%85%E8%AA%AD%E6%9B%B8150
引用元: ・【文芸】近畿大教員の交流から生まれた『必読書150』:「このリストにある程度の本を読んでいないような者はサルである」 柄谷行人回想録 [湛然★]
そう言ってる人も読んでないってのがミソなんすよ
じゃあ読む必要ないよね
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