しかし、この感覚をつくり上げているのは、社会にあるのではないかとも思っている。というのも、ジョージアでは有名人に対する捉え方が全く違うからだ。かつて、昔からよく見ていたジョージアのドラマの主人公と街中でバッタリと会ったことがある。一緒にいる友達にこっそりと「あの人って、
テレビによく出る人だよね?」と尋ねると、「ああ、あいつはそうだよ。よくこの辺で散歩している。友達のいとこだよ」という至って普通の返答だった。
ミーハーな行動とは分かりつつも、その超有名俳優との出会いのチャンスを逃すまいと、「一緒に写真を撮ってもいいですか?」とお願いした。すると、
その俳優は「外国人なのに、ジョージア語がうまいね」と言って、快く応じてくれた。
どうやらそんなことをお願いするのは外国人だけであり、写真を一緒に撮ってほしいとジョージア人に頼まれることは、まずないようだ。
なぜ、ジョージア人は有名人と遭遇しても騒がないのか? それは12世紀頃から「人間みな平等」の思想が根付いていたことにあると考えている。
それによると人は「みな神の子」であり平等である。すなわち精神、あるいは内面でこそ、その人の価値を測るべきだというキリスト教的な考え方に基づく。
従って、人は有名かどうかでは判断されない。
たまたまその人が有名なのであって、それが優れた人間であるということとはイコールではない。そういった感覚がジョージアでは共有されているのだ。
引用元: ・ジョージアの人「あいつ芸能人だよ?なんであいつと写真を撮りたがるの?あいつタダの人間だよ?」 [194767121]
> 従って、人は有名かどうかでは判断されない。これはキリスト教ジョークなのか?
「一般人に絡まれないこと・自由に買い物観光できること」を挙げてたけど
コメント