峯村:数千万人が餓死することになる大躍進政策で、誰も毛沢東を止められなかったのは、このころに毛沢東にすべての権力が集中する「一強体制」が確立されていたからでしょう。当時の国防部長で毛沢東の右腕だった彭徳懐が1959年、廬山会議の席で実地調査の結果を報告して、「ひどいことになっています。大躍進をやめましょう」と進言しました。すると、毛沢東は完膚なきまでに彭徳懐とその部下らを叩きまくった。その結果、彭徳懐は失脚に追い込まれました。
橋爪:井岡山(江西省の山間部)のゲリラ時代(1927年に毛沢東は労農紅軍を率いて同山を根拠地に革命の実験を始めた)から毛沢東を支え、朝鮮戦争では中国義勇軍の司令官も務め、勇敢で人望の厚い軍人だった彭徳懐ですが、その率直すぎる諫言が毛沢東の逆鱗にふれ、こっぴどく批判され、打倒されてしまいます。文革の時にもひどい扱いを受け、監禁状態のままみじめに病死したのもこのためです。代わりに軍の実権は、林彪が握ることになりました。
廬山会議は、大躍進を総括し、毛沢東を批判するはずが、あべこべに、毛沢東の主導する権力闘争にすり替えられた。これが大躍進の開始から1年後の出来事です。その翌年も大躍進は続けられ、1961年にようやく終わりますが、それまでに数千万人がもう死んでしまっていました。
農民は本来、食糧がなくなれば、村を捨ててよそに逃げ出すものなんです。そうやって自分と家族の生命を守った。清朝でも、明や宋も、ずっとそうだった。ところが中華人民共和国では、解放軍の兵士が銃をもって並び、逃げたら撃ち殺すぞと、移動を禁じたのです。だから大躍進は、中国共産党が農民を踏みつけにした人殺し政策なんです。それ以外の何ものでもない。
毛沢東の責任追及を「できる人がいなかった」
峯村:この期間に何人が亡くなったか。中国政府の資料である『中国統計年鑑』などを見ると、大躍進の期間だけで1700万人くらい人口が減っていることがわかります。いくつかの中国共産党の内部文書では、だいたい4500万人が犠牲となったという統計もあります。
人肉食の被害や、飢餓で子どもが生まれなかったことなども加味すると、その倍は亡くなっているとの指摘も可能になる。その意味で、毛沢東の責任は非常に大きいと言わざるを得ません。
橋爪:しかしそのことを共産党は、認めていないし反省もしていない。大躍進政策の後始末に、毛沢東に責任を取らせるのが順当だったのです。でも、それをすると、中国共産党や中華人民共和国の正統性に疑問符が付くことになる。だからできなかった。
それなら、毛沢東を名誉職の国家主席に棚上げし、党中央軍事委員会主席と政治局常務委員から退かせて、実権を奪えばよかったのです。そうすれば、共産党は軌道修正ができた。でもそれを怠った。それだけのことを、できる人がいなかった。
峯村:当時の文献を見ると、私は後者、「できる人がいなかった」のだと思います。やはり、1959年に大躍進政策の中止を進言した彭徳懐が失脚させられたことが大きい。
ただ、ひとつ補足すると、1962年の中央拡大工作会議(七千人大会)で、第二代国家主席の劉少奇が大躍進による飢饉について「三分の天災、七分の人災」と評価し、党中央の誤りを認めました。それを受けて毛沢東は自己批判を行ない、いちおう、総括をしようとしていた。しかし、結果から見ると毛沢東の自己批判はあくまで“したふり”であって、その後の文化大革命では劉少奇への攻撃を始めました。
橋爪:毛沢東の権威を傷つけるようなことを考えたり、実行したりするのは、反革命そのものなんです。天皇制でいうなら大逆罪みたいなものです。ふつうの人は恐ろしくて、とてもできない。毛沢東の権威を相対化できない構造になっていったことが、中国の過ちをとても深くしたと思います。
続きはソースで
https://news.yahoo.co.jp/articles/b30c76f0a93700c8d02711d63bedb023c1fcefac?page=1
引用元: ・数千万人が餓死した中国の「大躍進政策」 なぜ誰も毛沢東を止めることができなかったのか [1/8] [昆虫図鑑★]
共産主義者は比較的学歴が低い
若者を使い捨てにする
最近の日本ではSEALDsだね
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