引用元: ・毛沢東の「15年でイギリスを追い抜く」宣言が悲劇の始まりに… 数千万人が餓死した中国「大躍進政策」 [662593167]
橋爪:新中国の始まりのころ、とにかく建国当時は、技術者も資源も足りない。そこでソ連から、技術支援のために大勢のロシア人に来てもらったり、援助物資を送ってもらったりした。 でもソ連にも、そんなに余力はなかった。また、実際につきあってみると、ロシア人と中国人はなかなかウマが合わない。すぐモメてしまう。結局、建国後10年ほどで、ソ連の技術者は帰国してしまいます。設計図ももって帰ったというから、ケンカ別れです。そのあとは全部、中国人が自力でやらないといけなくなった。毛沢東のいう「自力更生」です。
毛沢東が「大躍進」の号令をかけたのは1958年。新中国がスタートしてから間もなくのことです。この大躍進政策によって、中国はたいへんなことになりました。
峯村:毛沢東の大躍進政策からは、フルシチョフへの強烈な嫉妬心が感じられます。
1953年にソ連の最高指導者になったフルシチョフは、1956年に「スターリン批判」を始め、ソ連は個人独裁体制から集団指導体制へと舵を切りました。「ジュニアパートナー」と見ていた中国に対しても、フルシチョフはスターリン主義との決別を求め、これを受けた中国共産党は、中国共産党規約から「毛沢東思想」の文言を削除し、個人崇拝を禁止しました。
当時、毛沢東は「百花斉放百家争鳴(人民からのありとあらゆる主張を受け入れる)」を提唱し、共産党への批判も歓迎するとしましたが、批判が大きくなると今度は態度を一変させ、共産党を批判した人を「反革命分子」「右派分子」などと呼んで弾圧し始めた。50万人と言われる学生や知識人が、思想を「矯正する」として地方に送られ、強制労働を課されました。
毛沢東のフルシチョフに対する嫉妬心が大躍進を生んだ
こうして独裁体制を固めた毛沢東は、1957年11月にモスクワで開かれた(社会主義国の)共産党・労働者党会議に参加しました。「ソ連は15年以内にアメリカを追い抜く」というフルシチョフの発言に対抗するかたちで、毛沢東も「中国も15年以内に(当時世界第2位の経済大国であった)イギリスを追い抜く」とぶち上げました。
そうして始まったのが大躍進政策だとすると、まさにフルシチョフに対する嫉妬が口火を切ったと言えそうです。
橋爪:農作物と鉄鋼製品の増産を図ろうとした「大躍進」でいったいどれほどの人びとが亡くなったか、よくわかっていません。5000万人か、もっと多いかもしれない。 中国では大躍進の被害を、「三年大災害」といいます。天候不順による天災で、農作物がとれなかったから餓死者が出た。共産党のせいではないのだ、と。でもどう考えても、共産党が農民から食糧を取り上げて、殺しているんですよ。
峯村:大躍進が始まったのは、毛沢東の個人崇拝政策がいちばんきつく行なわれていた時でもありました。
橋爪:誰に責任があるかと言えば、毛沢東なのは明らかです。でもこのことを、いまなお中国の人びとは直視できていません。日本人も宣伝に惑わされないで、真相を知るべきでしょう。
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