https://fujinkoron.jp/articles/-/14905
12/13
◆大学に入ると馬鹿になるという「常識」
私が大学に入ろうとしていた頃、つまりいまから半世紀近く以前、世間には大学に入ると馬鹿になるという「常識」があった。そういう記憶が残っている。
あんたは大学に行くというが、大学に行くと馬鹿になるよ。こうしたことをいうのは、世間で身体を使って働いている人たちだった。そうした発言の真の意味は、いまではまったくわからなくなってしまったと思う。
座って本を読んでいると、生きた世間で働くのが下手になってしまう。これはそういう意味だったはずである。その人たちの労働とは比較にならないが、こうした記憶があって、私はいまでも傘張りをする。身体を多少でも動かすのである。
いま世間では、教育をどうするかという議論が盛んである。そのなかに、大学に行くと馬鹿になるというのはないであろう。高校全入どころか、大学全入になりそうな勢いである。座って机の前で学べることもたしかにある。
しかし応用が利くことは「身についた」ことでしかありえない。教養教育がダメになったのも「身につく」ことがないからであろう。教養はまさに身につくもので、座って勉強しても教養にはならない。ただ勉強家になるだけである。それを昔は「畳が腐るほど勉強する」といった。それでは運動制御モデルは脳のなかにできてこない。
◆一期一会
なぜ身につかないか、それははっきりしている。情報化時代だからであろう。情報とは停まったもので、生きて動いている存在ではない。
テレビのニュースは、ビデオにとっておけば、100年経っても見ることができる。あれは一見動いているように思えるが、その意味では停止している。それを情報というのである。あらゆる発言は、テープにとれば停まっている。いくらでも繰り返し聞くことができるではないか。
しかしニュースを語るアナウンサーは、100年後には死んでこの世にいない。発言者は自分の発言をそのとおり繰り返すことはできない。かならず微妙に違ってしまう。
生きることとは、再び取り返しがつかない時間を通過することである。通過していく主体は、二度と同一の状態をとることはない。だからすべては一期一会 (いちごいちえ)なのである。
◆諸行無常
教育がそれを忘れて、もはや長いこと経つらしい。現代は情報化社会であり、おおかたの人々はそれでよしとしている。
それでも結構だが、そのときに忘れてならないことは、情報は固定しているが、人は生きて動きつづけているということであろう。情報が変化していくのではない。われわれが変化していくのである。それを諸行無常という。
鐘は剛体だから、いつ聞いても同じ振動数で鳴る。つまり同じ高さの音がする。それが違って聞こえるのは、人の気持ちが微妙に異なってくるからである。それを忘れた世界では、「生きがい」などという妙なものが話題になる。人が変わっていくそのことが、微妙な味わいを持つ。それが諸行無常の響きであろう。
俺は俺だ。多くの人がそう思って生きているらしい。そんなもの、意識がそう主張しているだけである。すべては移り変わるが、それを引き起こしているのは自分自身である。それを忘れて、「生きること」が成り立つはずがない。人間は情報とは違う。停止しているわけではないのである。
◆教育とは
学問とは情報の取り扱いである。つまり生きたものを停め、停めたものを整理する作業である。そこに大学に行くと馬鹿になるという言葉の真意があろう。それなら経済学が役に立たなくて当然である。経済学説は停止しているが、世間は動いているからである。
医者は患者の検査結果しか見ない。患者は生きて動いているから、面倒くさいのであろう。いまどきの若い医師は診察が終わるまで、パソコンの画面と紙しか見ていない。それが患者さんの文句である。
それは当然で、大学では「医学」を教えるからである。経済学と同じで、そこには「生きた人間」、つまりたえず変化する、奇妙で猥雑(わいざつ)なもの、そんなものが入り込む余地はない。
ほとんどの医師は、論文を書こうとする。学位を貰うためには、それが必要だからである。さらにそうした論文を書くのがもっとも得意な人が、大学では偉い医師になる。しかし論文をいくら集めても生きた人にはならない。そんなことはあたりまえであろう。論文はそのまま停止しているが、患者は生きて動いているからである。
※以下リンク先で
引用元: ・かつて存在した大学に入るとバカになるとの常識が消えたワケ 養老孟司 [七波羅探題★]
要を得ない文章だな
0点
コメント