記事:じんぶん堂企画室(聞き手・滝沢文那)※抜粋
https://book.asahi.com/jinbun/article/15538225
《柄谷さんは、「近代文学の終り」で、近代的な国民国家の成立には、文学、とりわけ近代小説が重要な役割を果たしたことを確認しつつ、その役割は終えたと指摘した。社会階層などでバラバラだった人々を、“想像の共同体”としての国民(ネーション)としてつなぎ合わせる過程で、共感を生み出す小説が基盤となった。娯楽として軽視されていた小説の地位は向上したが、代わりに知的・道徳的な負荷がかかることになった。近代小説は、虚構にすぎないが、より真実らしさを追い求めてリアリズムを課題とした。しかし、国民国家が世界各地に広がったこと、さらに映画などよりリアリティーを喚起しやすい形式が発達したことなどが重なって、特権的な地位を失っていった、とみる》
――当然というべきか、一部の文学者は反発しました。韓国でも話題になったそうです。
柄谷 近代文学―小説ですね―が決定的な意味を持った時代は終わった。だけどそれは、文学がなくなるとか、文学にはもう意味がない、ということではないんですよ。才能のある作家は常に出てくるものだ、とか、文学を読む人は少数であってもいなくなることはない、とかいった反論がありましたが、それと近代文学の終わりは矛盾しないんです。文学の終わりには、いろいろな要素があって、個々の作家だけの問題ではないから。たとえば、テクノロジーの問題があります。リアリズムという意味では、映画やテレビの映像のほうが文章よりも有利ですよ。小説は書く側にも読む側にも想像力が求められるから、負荷が大きい。その点、視覚や聴覚に訴える映像は楽なんです。
――確かに、日本で一般家庭までテレビが普及したのは70年代でした。
柄谷 小説の凋落を促した大きな要因が、テレビをはじめとする視覚的メディアだというのは、よく言われていますね。
――テクノロジーということで考えてみれば、近代文学そのものが、文字の複製技術である活版印刷の発展があって広がったんですよね。メディアの形式に関していえば、主役が紙からテレビになったのが70年代から90年代だとすれば、さらにインターネットにとってかわられてきたのが、この20年だったという気がします。
柄谷 ネットが出てきて変わった面も大きいと思います。実際 、2000年代以降には、古典的な文学を読む人はほとんどいなくなったんじゃないですか。
――そうですね。実感としても、かなり限られた人になってきたと思います。
柄谷 70年代には、まだまだ文学は読まれていたんですよ。そして、多くの人たちは文学は永遠だと思っていた。そういうときには、文学が終わりかけているという洞察には意味があった。だけど、今の人たちは、文学の永遠を信じるも信じないも、文学を読んだことすらない、という感じでしょう。そういう人たちに向かって、文学の終わりだなんて言ってもしょうがない。
■起源は終焉のときに見えてくる
――柄谷さんがリアルタイムで経験したことについて、少し順を追って聞いていきたいと思います。70年代末というのは、『日本近代文学の起源』(80年刊行)に収録される論文を書いていた頃ですね。近代文学は近代的人間の自我や内面を描いたのではなく、むしろ小説が内面や自我を作り出し、近代国家の形成に一役買ったのだ、という考えはすでにここで示されていました。
柄谷 そういうことが言えたのは、すでにその時に近代文学の終わりを感じていたからだと思う。一般的にいって、起源が見えてくるのは、終焉のときなんですよ。
――最近読んで面白かったのですが、文芸批評家の平野謙が75年に、その頃作家・松本清張が宮本顕治(当時の共産党委員長)と池田大作(同、創価学会会長)の会談を取り持ったことなどをあげて、「戦後三十年間における現代作家の驚くべき社会的地位の向上」を「痛感した」と書いていました。同時にその社会的地位向上に反して、文学の「内実」が希薄化していることとのギャップを嘆いています(「ひとつの締めくくり」『志賀直哉とその時代』所収)。
柄谷 確かにその頃にはまだ、政治と文学の関係はどういうものか、なんていうことが、大真面目に論争されていた。政治経済から世相まで何でもかんでも文学者に意見を仰いだりして、世間では文学者は偉いということになっていたしね。
引用元: ・【文芸】小説は終わったのか 戦後文学の最後から見たもの:私の謎 柄谷行人回想録 [湛然★]
■エンジンだった社会の格差
――言葉遊び、引用、パロディー、物語といった形式を持つものですよね。作家としては、中上健次、津島佑子、村上龍、村上春樹、高橋源一郎といった名前を挙げていました。70年代末の時点では、柄谷さんはそこにリアリズム中心の近代文学を超える別の可能性を感じていたようですが、90年代に入ると、こうした文学は急速に力を失った、とも書かれています。なぜだったのでしょう。
柄谷 そうですね……。一つの理由としてあげられるのは、近代小説というのは、“差異”から出てきたものだ、ということでしょうか。たとえば、ゴーゴリ独特のリアリズムは、ロシアに、先進諸国からはなくなってしまったような、成員の関係が濃密な共同体が残っていたことから生まれた。日本の夏目漱石も、中国の魯迅も、コロンビアのガルシア=マルケスも、それぞれの社会独特の背景から生まれた。当たり前のことみたいだけど、重要です。
(※以下略、全文は引用元サイトをご覧ください。)
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