12/8(日) 17:02 集英社オンライン 取材・文/河合桃子 集英社オンライン編集部ニュース班
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何度も命の危機を乗り越えて…
ヴィジュアル系バンドの黄金期である1990年代後半に、メジャーデビューからわずか2年で解散したバンド「D-SHADE」。田辺エージェンシーの期待の新人としてデビューし、その楽曲制作や宣伝費用は当時「3億円」と騒がれた。そんな伝説のバンドでドラマーを務めたYUJIこと秋好祐治氏(47)は、幼少期からさまざまな病と闘ってきた。ペルテス病、髄膜炎、狭心症、膀胱がん――それでもなお、ドラムスティックを握り続けるのはなぜなのか。その活動の原動力と半生に迫った。
■人気絶頂期にボーカルの意向で解散
1998年4月にメジャーデビューしたD-SHADEは中高時代の同級生ら4名で結成され、インディーズ時代から10代とは思えない作曲能力と演奏力の高さで人気を博した。
デビューシングル『BELIEVE』はナインティナインの冠番組「ナイナイナ」の、セカンドシングル『ENDLESS LOVE』はMAXが主演を務めたドラマ『スウィートデビル』の挿入歌となるなど、デビュー当初から大きく期待されていたことがわかる。
同バンドでドラマーを務めたYUJIこと秋好祐治氏は、幼少期からさまざまな病を抱えながらも、今なお精力的に活動を続けている。
その原動力はどこにあるのか。D-SHADE時代の知られざるエピソードから、現在の活動まで、その波乱万丈な半生に迫った。
――なぜ、人気絶頂で解散することになったのでしょう。
秋好祐治(以下、同) それはボーカルのHIBIKIが別の道に進みたいって言い出したからですね。僕らメンバーは何度も止めたし説得したけどダメでした。
――解散後、秋好さんはどういう活動をしていたのですか?
東京での暮らしが嫌になり川崎のアパートに引っ越しました。稼ぎが途絶えたんで、寝る間も惜しんでバイトを何個も掛け持ちし、ドラムの練習をしてました。
“トラ”っていう、業界用語で言うところの代役的な仕事を何度もしました。実はバンドの中には実際に演奏してないドラマーがいて、その方の代わりに僕がステージの脇でドラムを叩くのです。
――なんと! そんな役割があるんですか。実は有名なバンドのドラマーが演奏してなかった、なんてパターンもあるんですね。
はい。ドームで演奏するクラスのバンドさんでも、そういうケースはあります。D-SHADEを辞めた後が一番謙虚に練習を積み重ね、どんな仕事もありがたくさせていただいてました。
バイトも練習も寝ないでやってたんで、無理がたたって25歳で髄膜炎になり、2週間意識不明の重体になりました。
■5歳でペルテス病、30代で狭心症、45歳で膀胱がんに
――えー! 2週間もの間、生死の間をさまよっていたんですか。
はい。夢の中で僕の祖母から「こっち来ちゃいけない」と言われました。若くして亡くなった友達も「こっち来るな!」と。いろんな亡くなった方々に会いましたが、誰も「こっち来い」とは招きませんでした。
――その後、なんとか生還したんですね。後遺症はないのでしょうか。
それが、去年と今年で2回、交通事故を起こしているんです。去年6月には昼間に原付に乗っててノーブレーキで軽自動車に突っ込み、今年10月は首都高で壁に突っ込み車が横転。どちらも居眠りしてたわけでもないのに、事故直前の記憶がまったくない。
もしかしたら髄膜炎の後遺症なのかもしれないと思っています。来年にでも検査してみようと思うんですけど。
――危なすぎです。幼少期にペルテス病(大腿骨周辺の血行が悪くなり骨頭が壊死する病気)も発症されているのですよね。その痛みは今もあるんですか。
はい。5歳のときに発症しました。ペルテス病の診断を受け、特殊な装具を左脚に装着していましたが、それで生活するのは苦痛でしかなかった。
現在も足に痛みはあり、いつ歩行障害になるかもわかりません。
(※以下略、全文は引用元サイトをご覧ください。)
引用元: ・【音楽】「有名バンドのゴーストドラムとして食いつないだ」元「D-SHADE」のドラマーが告白「何度も本当に死にかけた」/ [湛然★]
それじゃない(´・ω・`)
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