引用元: ・筑波大教授「山上氏による暗殺は、大化の改新、明治維新に並ぶ偉業であり、神格化の対象となるような仕事」 [487816701]
「国のために死ぬ」ことを拒否する
銃撃事件とウクライナ戦争から考える「ひとのいのち」
筑波大学名誉教授・本誌代表編集委員 千本 秀樹
山上徹也はなぜ撃たなければならなかったのかhttps://gendainoriron.jp/vol.32/feature/chimoto.php
山上徹也はなぜ撃たなければならなかったのか
銃撃事件の直後、各政党をはじめ、さまざまな人びとが口をそろえて「暴力によって言論を封殺することは許されない」と発言した。しかし、山上徹也容疑者によるあの行為の原因が旧統一教会による被害にあるということの隠蔽が数日で破綻すると、「暴力による言論の封殺」云々という言説はたちまち姿を消した。現在では「山上ガールズ」なるファンクラブもどきのものまでが登場する事態となっている。いっぽう、山上徹也容疑者本人は、精神鑑定のために病院で留置されている。日本という国家権力は、政権を揺るがしかねない事件が起こると、その実行者を「精神異常者」として法制度の枠組みから排除し、罪に問わないかわりに社会から抹殺しようとしてきた。足尾銅山鉱毒事件を明治天皇に直訴しようとした田中正造を「精神異常者」として罪に問わなかったのが一例である。マスコミが伝えるかぎり、山上徹也容疑者の発言に不審な点はない。検察にとって銃撃事件は、山上徹也容疑者を無罪にしても事件そのものを葬りたいほどのものであったのか。事件後の政治的展開は、そのように姑息な策動を許さないほどに激しく動いている。
政治における暴力の発動は、実行者が事件後に権力を握った場合には、是認されるどころか崇高な行為とされて神聖視さえされた。乙巳の変、かつては「大化の改新」と呼ばれた中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足による蘇我入鹿殺害は、大王家(後の天皇家)による権力奪取だけを目的にした暗殺によるクーデターだった。蘇我馬子・厩戸皇子(かつて聖徳太子と呼ばれたが、「厩戸皇子」も根拠のある名称ではない)連合政権も、「改新政府」も中国の政治・文化を取り入れて中央集権国家をめざすことは共通しており、政策の大筋において違いはない。乙巳の変は、大王家が権力を奪取することだけが目的だったが、明治維新以降に研究が始まって、「大化の改新」は神聖視されることになった。
明治維新もまた、暗殺をともなうクーデターによって成功した。尊攘派にしても幕府側にしても、テロ行為は無数にあるが、特に大政奉還以後、討幕の口実を得るために、西郷隆盛は江戸で町人をも対象とする無差別テロを繰り返させるという挑発を行なった。江戸の治安を担当していた旧幕府側は業をにやし、薩摩屋敷を襲撃したことが武力で徳川家を打倒する口実となったのである。王政復古のクーデターは薩摩等の軍事力を背景とし、また明治4年の廃藩置県のクーデターも6000人の御親兵(天皇の軍隊)に包囲させて実現した。
「大化の改新」と明治維新という天皇制国家を確立させたふたつの政変が、ともにテロを伴うクーデターであったこと、これらの政変を明治維新以降神聖視し、戦後の学校歴史教育でもその本質が変化しなかったことは、日本文化の根底にテロを容認する発想が存在することを示しているのではないか。
銃撃事件の場合、山上徹也容疑者本人はやや右翼的思想の持ち主であったようだが、政治権力と結託した旧統一教会の被害者であって、いわば弱者による反撃である。わたしも1980年代には、原理研究会(統一教会の学生組織)からの脱会支援活動に参加したことはあった。しかしそれ以降、日本政府もマスコミも、一部の弁護士などを除いて日本社会全体が統一教会の被害者の存在を無視してきた。被害者やその家族のなかから自殺者が出ていたにもかかわらず、である。その結果、彼は今回の行動に及んだ。ひとりの行動が、これほどの政治的流動を生んだ事例はあっただろうか。庶民のあいだで暗殺者が英雄視された数少ない例は、原敬首相を刺殺した鉄道労働者の中岡艮一である。山上徹也と共通するのは、はっきりした右翼活動家ではなかった点である。
元首相銃撃の際、公然とはいわないが、「やったぜ」と喜んだ人びとは少なくないはずである。「暴力で言論を封殺してはならない」というのは、現在のところ、建前にすぎない。「人の命は何よりも尊い」という命題は、血肉化されていない。
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