・セブ島の高校生が作成していた国民的英雄の物語
4月24日。セブ・シティのサン・ペドロ要塞公園を歩いていたら短編映画を作成していた高校生グループに会った。
フィリピン独立の英雄“ホセ・リサール”が現代にタイムスリップして現代フィリピン社会を観察するというようなストーリーらしい。
彼らの話しぶりからホセ・リサールがいかに国民から崇拝・敬愛されているか伝わって来た。
日本では一般に知られていないが、ホセ・リサールはフィリピン人なら誰でも知っている断トツ・ナンバーワンの国民的英雄である。
マニラ中心部には壮大なホセ・リサール記念公園がある。どこの町にも必ず“ホセ・リサール通り”“ホセ・リサール公園”があり
至る所にホセ・リサールの銅像が立っている。幼稚園から大学まで学校には必ず彼の銅像がある。
調べると1956年に「ホセ・リサール法」が制定され全ての学校でホセ・リサールの生涯、著述を教えることが義務づけられている。
・国民的英雄の35年の短い生涯
筆者は2年前に見学したマニラのホセ・リサール記念館(Rizal Shrine)を見学した。
記念館は英雄の生涯を数多くの展示物で丁寧に紹介していた。
ホセは1861年6月19日にルソン島カランバで生まれ、1896年12月30日にスペインからの独立を扇動した罪でマニラのサンチアゴ要塞で
処刑された。その処刑場跡地にホセ・リサール記念館が建てられている。
ホセの家系は父方に中国人、母方に日本人もいるスペインとフィリピーノの混血(mestizo)。白皙眉目秀麗学究肌の肖像が残っている。
マニラのアテネオ学院で農業・測量を学びサント・トマス大学で医学を修了、21歳でマドリード大学医学部と哲文学部へ。
この間に18歳でスペイン語の詩のコンテストで優勝。24歳で哲文学博士・医学学士。
その後パリ大学で仏語と眼科を修め26歳からハイデルベグル大学、ライプティヒ大学、ベルリン大学で医学と社会学を学ぶ。
ホセは同時に語学の天才で英・仏・独・西・蘭・葡・露・中国など主要言語かラテン・ヘブライ・サンスクリットなど22カ国語を習得。
ホセは独立運動の精神的リーダーであるが同時に医師、著述家、詩人、学者、画家という博学多才ぶり。
辛亥革命の孫文、魯迅、日本では平賀源内、南方熊楠を併せたような稀有な才人である。
ー中略ー
・1962年の皇太子夫妻のフィリピン訪問とホセ・リサールの遺産
現在の上皇ご夫妻は皇太子時代にまだまだ反日感情がくすぶるフィリピンを親善訪問。
空港到着時の挨拶でフィリピン人なら誰でも知っているホセ・リサールの有名な辞世の詩を引用して
「貴国の英雄の言葉に従えば『東洋の海の真珠』(フィリピンを指す)を自分自身の目で見るのが宿願でした」と切り出した。
さらに歓迎晩餐会では「昨年(1961年)のホセ・リーガル博士の生誕百年を祝して東京の中心(日比谷公園)に博士の記念碑が
建てられました。この記念碑は自由と独立の大義に一命を捧げた博士の……に対して日本国民の心からの尊敬をあらわすものです」と
スピーチ。
こうした皇太子の言葉がメディアで伝えられるとフィリピン国民の間に皇太子夫妻を歓迎するムードが広がって行ったという。
当時ホセの遺稿が発見され日本滞在の様子やホセの見た古き良き日本を人々が知ることで更に好意的感情が生まれたようだ。
ホセは日本滞在中に手紙や日記で「日本人は温順・平和・勤勉な将来性のある国民である」
「日比両国は緊密な関係を持たねばならぬ」と記していた。
さらに皇太子夫妻は病気静養中の当時92歳のフィリピン初代大統領アギナルドを自宅に見舞っている。
アギナルドは19世紀末の対米独立戦争で日本から受けた支援に感謝を表明した。
当時のフィリピンのメディアによると皇太子夫妻の親善訪問は予想外の好意的反響を呼び友好親善ムードが広がったとある。
高野凌
全文はソースから
10/6(日) 5:02配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/76efe0f01d6587383a410a35dbb8974a599f4ee8
引用元: ・【Wedge】 フィリピンの国民的英雄から始まる日本との友好の絆 [10/6] [仮面ウニダー★]
え、反日感情がくすぶってた?
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