「男も女もす(為)なる」ために殿上人から市井の人々まで使っていた、「珠玉の言葉」を徹底的に集めた話題の書
『性愛古語辞典──平安・奈良のセックス用語集』(下川耿史著、作品社)より、コラム「『詩経』と『遊仙窟』」を抜粋。
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奈良時代の760年(天平宝字4年)頃に成立した『万葉集』と、平安時代の905年(延喜5年)に撰述された『古今集』は、
日本文化の原点ともいうべき歌集である。
「令和」という新しい年号が決まった際にも、この言葉が『万葉集』から採られたというので話題になったし、『古今集』は
平安時代の優雅な王朝文化を象徴する歌集として変わらぬ人気を集めている。
ところがこれらの歌集は『詩経』と『遊仙窟』という古代中国の二大ポルノに触発されて作られた側面が大きかった。
両書の影響は『万葉集』と『古今集』の双方に深く、かつ広い範囲にわたって浸透しているが、ここでは分かりやすい
という点から『万葉集』と『遊仙窟』、『古今集』と『詩経』に分けて、その結びつきを紹介する。
唐で『遊仙窟』が出版されたのは679年頃だが、出版されるとまもなく、日本人の間では「何としても読みたい」という
思いが激震のように広がった。この動きには2つのパターンがあった。
第一に当時、唐の都の長安には大唐街と呼ばれる日本人街があり、相当数の日本人がいた。彼らが『遊仙窟』を求めて長安の
街を駆け回ったのである(諸橋轍次『大漢和辞典』による)。
長安の街を駆け回った日本人には別のグループもあった。『遊仙窟』が出版された後の直近の遣唐使は702年に派遣された
第7回派遣団であった。出版からはすでに20年以上が経って、中国でのブームは過ぎていたと思われるが、日本からはるばる海
を渡った人々の間では、まだ見たことのないポルノ小説への関心は衰えることがなかった。
しかもこの派遣団にはこれまでと違う特徴があった。それは前6回の派遣団は2隻仕立てで、1隻に100人から120人、
総計250人前後が乗り組んでいたが、この回から4隻仕立てに増強され、人員も600人くらいが派遣された。そのすべてが
長安まで同行したわけではなかったが、長安に上った人々は着くや否や、『遊仙窟』を求めて駆け回ったのである。
ちなみにこの時の留学生の中に下級役人だった山上憶良が含まれていた。そしてそのことが、『万葉集』とその後の日本文化
に大きな影を残すことになった。
憶良といえば、大伴家持や柿本人麻呂と並ぶ『万葉集』の顔と評価されているが、彼が持ち帰った『遊仙窟』は上司である
大伴旅人から、その息子で『万葉集』編さんの中心的役割を担った大伴家持へと伝えられたのである。家持は『万葉集』
の中に『遊仙窟』から着想した和歌を十数首残しているほか、同時代の歌人たちにも影響を与えたのである。
ニューズウィーク 9月21日
https://www.newsweekjapan.jp/nippon/season2/2024/09/515431.php
◆ニュー速+ 記事情報提供スレ 150◆
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!jien
引用元: ・【中国起源アル】『万葉集』も『古今集』も中国の2大ポルノに触発された…『詩経』と『遊仙窟』とは?[R6/9/24]
なんか朝鮮民族みたいなこと言い出したなぁ。
正確には韓国か
何を言っているのかさっぱりわからねえ
頭がどうかなりそうだ
コメント