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碧の海に浮かぶ「僕の島」
名古屋と紀伊勝浦を結ぶ特急「南紀号」は、およそ250キロの距離を4時間かけてゆっくりと走った。列車が愛知から三重、和歌山へと進むにつれ、山々の緑が深まり清流が目立ってくる。終着駅のひとつ手前、新宮駅を越すと、車窓に息を飲むようなエメラルドグリーンの海が広がり、南紀号は、流麗な海岸線を舐めるようにして紀伊勝浦駅に到着した。
(略)
ジャニー喜多川が日本に住んだ1歳10カ月から18歳1カ月までの16年間は、これまで明かされることのなかった空白の歳月だ。彼は、この全期間を関西圏で生きた。実際、過去のビデオを慎重に視聴すると、普段は東京の言葉を使う彼が、ふいに関西弁で話す場面に出くわすことがある。
生前、ジャニーは「空白の16年」をほとんど語らなかった。というよりも、その大半をアメリカで暮らしたと思わせるように慎重に振る舞ったが、和歌山だけは例外だった。たとえば、被害者のひとり、俳優の服部吉次さん(79)は、私が今春訪ねた時にこう回想した。
「和歌山のことはしきりに話していましたね。だから、よほどよい想い出があるんだなと、僕は思った」
ジャニーが中の島に住み始めたのは、遅くとも1939年(昭和14)、7、8歳の時。この年、僧侶だった父の諦道(たいどう)が「和歌山県勝浦港中之島に転居」したと、真言宗の専門誌、「六大新報」の同年5月号が記している。
だが、もしかすると、それ以前だったかもしれない。というのも、34年(昭和9)5月に母、江以(えい)が早逝しており、かつ、祖父の常吉が、「昭和10年頃に……中の島の経営を一任」されているからだ(『中の島15年の歩み』中之島温泉土地株式会社/73年)。
3人の幼子の養育は、諦道の男手ひとつでは難儀だったろう。反対に、旅館なら板前も中居も揃っている。しかも、祖父は番頭、現代でいえば支配人なのだ。
引用元: ・「親戚のおじさんと愛しあう日々」ジャニー喜多川が幼少期を過ごした“お伽の島”を現地取材《日米徹底ルポ》 [ネギうどん★]
よくある話だけどあまりにも気持ち悪い
気持ち悪過ぎなんだけど…
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