「過激中道」とも訳され、日本では批判的に紹介されることが多いこの概念は、いかなる文脈で生まれ、なぜ今注目を集め、どれほどの有効性があるのか。
政治学者の吉田徹氏が論じる。
(『中央公論』2024年10月号より抜粋)
ヨーロッパは常に新しいイデオロギーや政治コンセプトを生み出してきた場所だ。
コミュニズム(共産主義)やソーシャリズム(社会主義)は言うまでもなく、20世紀に入ってからの新しいイデオロギーといって良いであろう、ファシズムをも生み出した。
その地では近年、「極中道(きょくちゅうどう)(「エキストリーム・センター」もしくは「ラディカル・センター」)」という聞き慣れない言葉が流通するようになってきた。
そもそも「中道」という概念自体、政治史や政治学では必ずしも明確な定義付けをされてこなかった。
これは、現状の変革や作為を企図するものであるはずの政治イデオロギーとして把握するのが難しいという事情も作用している。
では「極中道」とは何を意味するのか、その新しさはいかほどのものなのか──少なくともそれに改めて注目が集まっている背景には、現実政治での展開が影響している。
●既成政党凋落による「中道回帰」
【中略】
●左右ポピュリズムへの嫌悪
こうした傾向に積極的意義を見出す論者も少なからず存在する。
イスラエル出身の政治評論家ヤイール・ズィバンは、「極中道」という言葉自体は用いていないものの、最近の右派や左派ポピュリズム、自国ファーストを唱える政治勢力の伸張を前にした中道政治の再興を主張している。
曰く、政治における「中間(ミドル)」と「中道(センター)」とは異なるものであって、前者は左右両極との相対的距離から採られる立場であるのに対し、後者は、自由民主主義の擁護、個人の権利、機会の平等
市場原理とセーフティネットの両立などを通じた、より良い世界構築が可能になるという確信に基づいた政治だと主張している(The Centre Must Hold, 2024)。
ポピュリズムは複雑な問題に簡単な解答を提示し、敵対と分断を糧とするのに対し、中道は世界の複雑さを引き受けつつ、恐怖に対して希望を提示する存在になるべきだという。
「極中道」という言葉を最初に広めたのは、批評雑誌として名高い『ザ・ニューヨーカー』記者だったレナータ・アドラー『ラディカルな中道に向けて(Toward a Radical Middle)』(1970年、未邦訳)とされる。
もっとも、政治的・経済的リベラリズムを編集方針とする英『エコノミスト』誌も一時期、自身を「極中道という歴史的な立ち位置」と掲げていたことからも
分かるように、これは基本的には進歩、個人主義、資本主義といった近代的価値を擁護する立場だと位置付けてよいだろう。
ただし、こうした主張に既視感があるのも事実だ。冷戦が終わってから、米クリントン政権が掲げた「ニュー・デモクラッツ」、英ブレア政権が提唱した「第三の道」
独シュレーダー政権による「新しい中道」など、当時の社民政党は既存の左右イデオロギーから距離を取った政治的スタンスの再定義を試みてきたが、「極中道」をそのリバイバルとみなすことも可能だからだ。
もっとも、過去のそれが冷戦終結を迎えた社民路線の再定義だったのだとすれば、今回は左右ポピュリスト政治に対するアンチテーゼという意味合いが強い。
続きは中央公論 吉田 徹(同志社大学教授)
2024年9月18日 中央公論編集部
https://chuokoron.jp/international/125657.html
引用元: ・極右・極左でもない「極中道」というヨーロッパ発の新しい概念が注目を集める…極中道は民主主義の救世主か破壊者か [おっさん友の会★]
中道
国民民主党支持
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