太平洋戦争で旧陸軍ガス兵の訓練を受けた元高校教諭、永見小太郎さん(102)=滋賀県近江八幡市。同じ部隊の兵士は「私以外、みな戦死した」。足元に爆弾が落ち、機銃掃射に遭い、自宅が全焼するなど何度も九死に一生を得た。戦後79年。「戦争は絶対にあかん」と訴えている。大阪市生まれ。14歳で卸問屋などへでっち奉公し、19歳で太平洋戦争になった。働きながら夜間中学へ通い、22歳の春に召集された。
「いよいよか。立派な体格じゃないし、兵隊が務まるか…」。終戦1年前の当時は盛大な見送りはなく、人知れず神社で町の役員らに見送られ、学校で日章旗を贈られた。入隊後、軍服はつぎはぎだらけ、サイズの合う靴がない。靴が小さいと言うと1等兵から「足で合わせ!」と怒られた。食べ物は大豆7割の飯と具がほとんどない汁だった。
ある日、馬の水飲み場で「顔を漬けろ」と命じられた。長く息を止めて顔を上げると、部隊で「一番息が長い」としてガス兵に選ばれた。進軍して敵の毒ガスを無毒化する役目。約1カ月の訓練後、出征前に「家で待機」となった。しかし、待てども戦地に送られず、同じ部隊の残りの人は先に出征。途中で船が沈められて、全員戦死したという。
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しばらく鉄道局で当直をして泊まった。「街中で死んでも誰にも見つけてもらえない。死ぬなら職場で」との思いだった。終戦前日の8月14日、朝から空襲警報が鳴り「もう鉄道局を守っても仕方がない」と電車に乗り、母、妹がいる疎開先へ逃げた。途中、電車が止まり、全員が降りて田んぼのあぜに散らばり伏せた。「バリバリ」と銃撃の音が響いた。戦闘機の空襲だった。
「当時は、もう日本の飛行機はおらへん。すれすれの低いところを飛んで、笑いながら撃ちよるのが見えた。向こうは遊んどる」と憤る。戦闘機は何度も旋回。「生きた心地がしなかった」が、無事だった。
「(終戦の頃は)負けると思っていたけど、みな自分を守るのに必死で口に出せなかった。終戦が遅れたことで、たくさん国民が犠牲になった。もっと早くに負けたら良かったのに」
以下略
https://news.yahoo.co.jp/articles/327b5fd0385268033ee3ffdb8764c002ca0457b8
引用元: ・元陸軍ガス兵の102歳男性「日本は負けると皆思ってた。もっと早く負けたらよかったのに」 [902666507]
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