ノモンハン戦争で34歳の父が戦死、長男として農作業の日々
福島県平田村に住む吉田秀忠さん(94歳)
今も自ら畑に足を運び、カボチャなどの野菜を作っている。夏の炎天下、肌着は汗でびしょ濡れ…年季の入った帽子を被り黙々と作業をしていた。福島県平田村に住む吉田秀忠さんは今年で94歳になった。戦時中も今も「自分たちで食べるものは自分たちで作ってきた」と、しっかりとした口調で話す。
「母子家庭の4人暮らしだったけど、自分たちで作る野菜もあって、少しのコメに大根を細かく刻んで混ぜたり、秋になるとサツマイモ刻んでコメに混ぜたり、そんなごはん多かったです。質素なものでした」。
秀忠さんの父親・都さんは1939年に起きたソ連軍とのノモンハン戦争で34歳の若さで亡くなった。母親のテルさんは肋膜炎(今の結核性胸膜炎)を患っていて、思うように農作業はできなかった。力仕事ができる父親や叔父などがいる家では田んぼでコメが作れたが、秀忠さんたちにはできなかった。その分、長男の秀忠さんは畑仕事に精を出すしかなかった。
蒸気機関車に夢中になった少年 忍び寄る戦争の影
少年だった秀忠さんが夢中になった蒸気機関車
農作業の毎日だったが、秀忠さんには当時、夢中になるものがあったという。それを目の当たりにした時の様子を鮮明に覚えていた。
「農作業が終わって、7歳のころかな、一人で3時間くらい歩いて石川駅に蒸気機関車を見に行ったんだわ、大きくて、すごかったねー、あこがれましたわ」。
1941年、日本は太平洋戦争に突入した。開戦当初は日本軍の勝利が続いたが、秀忠さんが中学生になったころ、戦況は次第に悪化していった。1942年に始まったガダルカナル島の戦いでは、教師を目指していた従兄が戦死したと知らせが入った。
※続きは以下ソースをご確認下さい
8/6(火) 18:06
福島中央テレビ
https://news.yahoo.co.jp/articles/167348cb49f11a43c154989d39eea6294e219434
引用元: ・【日本の原爆開発】原爆開発に動員された15歳 炎天下に見た希望、今も焼き付く戦争の絶望 [尺アジ★]
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