ソ連軍の侵攻を知った数万人もの一般邦人は、西へ南へ向けて避難を開始。学校や駐在所など屋根のある「寝場所」は取り合いになったが、そこに広がっていたのはきわめて“異常”な光景だった――。
そんな窮状を憂い、6万人もの同胞を救出する大胆な計画を立てて祖国に導いた「とある男」に光を当てたノンフィクション『奪還 日本人難民6万人を救った男』(城内康伸著)より、一部抜粋・再編集して紹介する。
***
25万人の逃避行
厚生省引揚援護局未帰還調査部が1956年にまとめた「北鮮一般邦人の資料概況」によると、ソ連や満州と国境を接する咸鏡北道(ハムギョンプクド)に在住する日本人は、1944年5月の時点で約7万4000人だった。
翌1945年8月、ソ連軍の侵攻を知ると、数万人の一般邦人は住み慣れた土地と家を捨てて炎暑の中、西へ南へと逃避行を始める。それは北朝鮮に当時住んでいた約25万人の日本人を襲う苦難の序章だった。
実は、日本軍は1945年春、ソ連軍と開戦すると咸鏡北道が戦場になると想定し、事前に道民の避難計画を立てていた。
軍の予想した戦場地帯を避けて、羅津(ラジン)の西約50キロの会寧(フェリョン)を経て、さらに西へ進んだ茂山(ムサン)を経由し、内陸部の白岩(ぺガム)に南下するルートだった。
軍の指令に従って、咸鏡北道の防衛本部は7月、この避難計画を「第98計画」として、各地区の官公庁や民間企業の責任者に限定して知らせていた。ただ実際には、東海岸づたいに、清津(朝鮮人ジン)方面に南下する人々も相当数いたとされる。
「万単位の人間がね、狭い道をウッサ、ウッサと歩くわけですよ」
https://www.dailyshincho.jp/article/2024/06170612/?all=1
引用元: ・「どこに行っても人が泊まった後は、うんこだらけなんだ。屋内だよ」朝鮮半島からの引揚経験者たちが証言する「地獄の脱出行」 [朝一から閉店までφ★]
こいつらホントに人なのかよ…
>後から来た者は泊まれないんですよ。夜なんか暗いところ歩いていると踏んじゃうんだ。> 普通の人間、普通の避難民がやっているんですよ。これこそが戦争の不思議さ、怖さだよ」
< ;?Д?> 怖いの解るけど、何でそうなってたニカ?
朝鮮人に見つかると腸を引き摺り出されるとかあったから、外に出るなとかあったんだろうかね
コメント