新幹線で座席を倒したいとき、あなたは後ろの席の人に声をかけてから倒しているだろうか。いつからかマナーとして浸透した「席、倒していいですか?」の一言だが、「その声がけこそ、自己中な人間がすること」と堀江貴文氏は一刀両断する。
礼儀やマナーを重んじる国、日本に広がる暗黙のルールや非効率的なマナーが生み出す社会の「生きづらさ」を堀江氏が考える。
新幹線で、いちいち「席、倒していいですか?」と確認してくる奴がいる。正直言わせてもらうと、ウザい。
座席を倒したいなら勝手に倒せばいい。トラブルになるのを避けようと事前確認を取っているつもりなのだろうが、そうやって何でもかんでも保険かけようとすんなボケ、と心の底から思う。
せっかく人がくつろいでいるのにもかかわらず、バカがいきなり話しかけてくるせいで一気に不愉快になる。
そもそも、知らない人から突然話しかけられると、心臓がドキッとする。
意外かもしれないが、僕は事故に巻きこまれるのが嫌で、普段からかなり気をつけて生活している。不特定多数が集まるスクランブル交差点のような場所を歩くのは、できる限り避けるようにしている。混雑した電車のホームで誰かとぶつかって、線路に落ちでもしたら大変だ。テロの心配だってあるし、電車にはなるべく乗らないようにしている。
タクシードライバーはこのところどんどん高齢化しているから、ブレーキとアクセルを踏み間違える事故だとか、運転手がいきなり脳溢血(のういっけつ)を起こすことだってありうる。
だからタクシーに乗るときには、必ず後部座席に座ってシートベルトを着用している。
それくらい慎重になっている僕だけに、知らない人間に前触れもなく話しかけられるのはとんでもないストレスだ。
気配を感じてハッと顔を上げたら、見ず知らずの人が手を差し伸べてくることもある。うつむき加減にスマートフォンを見ていたら、わざわざ下から僕の顔を見上げて「あんた、ホリエモンよね?」と話しかけてくるオバちゃんもいた。何というハートの強さだろう。ここまでくるともう怪談だ。
僕に気づいた見ず知らずの人が「一緒に写真撮ってもらっていいですか」と聞いてくるのにもウンザリだ。友人でもない、知り合いですらない人と一緒に、何で写真なんか撮らなければいけないのか。
僕が彼らにつき合い、自分の時間を差し出すメリットはどこにあるんだろう。「他人の時間を奪う」という行為が、一種の暴力行為であることを自覚してほしい。
僕はものすごい回数、新幹線に乗ってきたが、数年前までは「席、倒していいですか?」なんて聞いてくる奴は一人もいなかった。この不思議な習慣はどうやって生まれたのか。
暗黙の「謎ルール」と「生きづらい社会」
第一に、新幹線内でノートパソコンを使って仕事をするサラリーマンが増えたことだ。パソコンを前の背もたれギリギリまでもたせかけていると、座席が倒れてきたときパソコンにゴツンと当たることがある。
第二に、新幹線の車内アナウンスが「座席を倒すときには、まわりのお客様にご配慮ください」という余計な呼びかけをしていることだ。
第三には、SNSの影響がある。僕みたいに「座席を倒そうが倒すまいが個人の自由だ」と思っている人間がサイレント・マジョリティなのに、一部のノイジー・マイノリティが「黙って座席を倒してくる失礼な奴がいた」などと怒って文句を書く。
するとそいつの友人知人やフォロワーが「自分がやっていたことはマナー違反だったのか」と誤解して、知らない人間に突然声をかけ始めるのだ。
行き先を告げると、「ルートはどういたしましょうか」といちいちこちらに確認してくるタクシー運転手もいる。
最短ルートで目的地まで客を連れて行くのが彼らの仕事だろうに、なぜ僕が道順までレクチャーしてやらなきゃならないのだろう。住所を口頭で確認しているくせに、カーナビの操作をミスって全然違う場所で降ろされたこともある。
引用元: ・堀江貴文「新幹線で『席、倒していいですか?』の一言は不要」 無意味なマナーと日本の閉塞感 「何でもかんでも保険かけようとすんな」 [冬月記者★]
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