防衛研究所戦史研究センターの新福祐一・2等陸佐は、インパール作戦の源流となる動きが41年12月の太平洋戦争開戦直後から大本営で始まっていたと指摘したうえで、「日本型組織の問題点が浮かび上がる」と語ります。
――インパール作戦を巡っては戦後、第15軍司令官だった牟田口廉也中将の作戦指揮に批判が集中しました。
牟田口中将は「ダメな将軍」 「良くないリーダー」の典型として語られてきました。彼が実行したインパール作戦は、英領インド北東部のインパールよりもさらに奥地のディマプールへの突進に固執し、「鵯越(ひよどりごえ)」と称する2千~3千メートル級の山岳地帯を徒歩で越えて奇襲を行う計画でした。
その結果、食料や装備が足りずに、多数の戦死者や餓死者を出した悲惨な戦いでした。
インパール作戦から80年 日本兵約3万人死亡 インドに慰霊碑
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240509/k10014443811000.html#:~:text=%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BD%9C%E6%88%A6
引用元: ・【朝日新聞】インパール作戦、牟田口廉也中将だけの責任だったのか
今日も円安で世界に勝ってる
贅沢は敵だ
節制しろ
コメント